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朝鮮式山城iについて①

2019.03.11.Mon.08:05
金浩
2月27日 17:14
嘘みたいな本当の歴史話㊷

皆さん、2016年に福岡県筑紫野市でかつて朝鮮半島からの渡来人が築いた「朝鮮式山城(ちょうせんしきさんじょう・ちょうせんしきやまじろ)」の大発見があった事はご存知でしょうか?今日はこの「朝鮮式山城」とそれにまつわるお話をしたいと思います。

「朝鮮式山城」は「百済式山城(くだらしきさんじょう)」とも呼ばれ、読んで字のごとく朝鮮半島式の山城や城郭の事を言います。日本のお城は天守閣を守るためにありとあらゆる防御策を敷いた様式でありますが、朝鮮半島のお城は街そのものを城壁や土塁等で囲う様式です。この様式は朝鮮半島の古代三国時代(高句麗、百済、新羅)に急激な発展を遂げたそうです。

では何故、日本に朝鮮式山城があるのか?それは朝鮮半島の6世紀三国時代にさかのぼります。朝鮮半島にあった三国の中の一つ新羅は常に他の二国、高句麗と百済に挟まれ攻撃の危機にさらされておりました。そこで新羅は唐の国(中国)に援軍を求めてついに百済を攻め滅ぼしにかかりました。百済はそこで大打撃をうけ滅亡の危機にさらされます。そこで百済は交流が深かった倭国(日本)に援軍を求め、倭国はそれに応じて百済に軍を派兵しました。西暦663年、百済軍と倭国の連合軍はかつて百済の重要都市であった錦江付近で新羅と唐の連合軍と激しい戦闘となり大打撃を受けとうとう百済は滅亡してしまいます。この戦いを「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい・はくそんこうのたたかい)」と言います。

白村江の戦いで敗れた百済・倭国連合軍はその後日本に逃げ落ち、多くの百済渡来人が日本に渡ってきました。いつ反撃に出るかわからない新羅、唐連合軍に備えて、倭国は九州を中心に防御策に出ます。その中心となったのが九州の行政機関である大宰府(だざいふ・おほみこともちのつかさ)でありました。

白村江の戦いの翌年、西暦664年に現在の太宰府市と筑紫野市の平野部と山間部を囲むように土塁が築かれました。これを「水城(みずき)」といいます。またその翌年、西暦665年には平野部を挟む北側福岡県の四天王寺山に「大野城(おおのじょう)」を、また反対側の南側佐賀県基山には「基肄城(きいじょう)」が築かれました。これらを総称として「朝鮮式山城(百済式山城)」と言います。この築城の指揮を執ったのが百済渡来人の「憶礼福留(おくらいふくる)」と「四比福夫(しひふくぶ)」であり百済の技術が使われました。また記録によると、同年に長門国(現山口県下関市)に百済将軍の「答㶱春初(とうほんしゅんそ)」が長門城を築城しましたが、この山城は現在所在が分かっておりません。さらに熊本県の「鞠智城(きくちじょう)」も百済渡来人が築城しました。またこれを機に福岡県と佐賀県各地を始め中国地方にも次々と築城されていきましたが、結局新羅は日本には攻めて来ませんでした。

いかがでしたか今日の朝鮮式山城のお話。
信じるも信じないもあなた次第です。
次回は冒頭にも述べた、朝鮮式山城の大発見についてお話ししたいと思います。
では次回・・・



大野城の城壁と水門(写真中央部)
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大野城の城壁と水門(写真中央部)
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大野城の城壁と水門(写真中央部)
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大野城の城壁跡
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基肄城石碑
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基肄城の土塁跡
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円上部は大野城
円中央は水城
円下部は基肄城
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☆彡Mさんのコメント
朝鮮式の山城、2016年に見付かって居たのは知りませんでした。シェアさせて頂きます。百済の滅亡王の亡命は660年で百済の残党に663年から3年援軍したのが白村江の戦いでは無いでしょうか。此の百済最後の王は愚鈍王で、干魃が続いたりしても方策も取らず忠義の臣が、柵を直す事や遊興を慎む事を高句麗と結ぶなど諌めたが その忠義臣を牢獄して死なせてしまった。なので後に 唐が此の白村江を押さえる事に成った時、愚鈍王(名前を失念) 唐の戒めとして碑を建て旧唐書にも載っています、日本では此の白村江の戦いは史実なのに 余り習いません。都合の悪い歴史なのです。日本最古の書 古事記は711年
日本書紀も720年、
百済縁京都に遷都は794年 此の660年頃、九州倭国と飛鳥勢力は並行していたと思います。奈良の平城京は710年其から僅か84年で遷都します。そして古事記を残した。有り得ない神話をです。

Sさんのコメント
飛び入りの無駄話お許しください。
万葉の歌人、大伴家持も、少年期を太宰府で過ごしてます。
その父旅人は、彼の地で妻に先立たれ、水城あたりを寂しく彷徨していたそうです。
多分、当時の支配階級の人たちは、今の英語並みに朝鮮半島の言葉や、漢語をはなすことができたんじやないかな?
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