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神武天皇陵とは何か④

2018.11.20.Tue.08:59
陵の所在地は平安時代ごろまでは知られていたようだが、その後分からなくなった。
江戸時代にいたって、徳川光圀の上申などにより、元禄年中に調査が行われ、古代の他の多くの天皇陵とともに、神武陵も改めて指定しなおされ修復が加えられた。
(この時、神武陵と指定されたのは四条村の福塚で現在の第2代綏靖天皇陵)
江戸時代中期以降、国学がさかんになり「古事記」がおもんぜられだすと、この時の指定に対する疑問がたかまってきた。
「古事記」には白檮の尾の上とあるのに、四条村の福塚のように畝傍山の山麓から五、六町も離れた平地にあるのでは、理屈あわない、というのである。
そこで重視されてくるのが、畝傍山の東北のふもとの大久保村ジブデン(神武田)にある塚と、これに隣接してさらに山よりにある洞村(ほらむら)の上方、畝傍山の中腹にある丸山と呼ばれる塚とである。
後者は本居宣長・蒲生君平・北浦定治らに支持されて有力であったが、川路精謨・谷森善臣らは強く前者をおし、結局これが文久3年(1863)に神武天皇陵にさだまった。
しかしもちろん、ここに神武天皇が葬られているというたしかな証拠はなにもない。
記録によると、塚というのは東西三間五尺・南北四間一尺(6.9m×7.5m)・高さ三尺五寸(1.06m)
ほどの、方形中高の土壇である。寺院の建物の基壇ではないかという説もある。

それはともかく、この小さな塚は文久3年に、費用一万五千余両をついやして、神武陵に姿をかえた。
明治以後、政府の手でさらに修復が加えられ、偉容をましたことはいうまでもない。
陵域も拡張され、明治初年には東西100メートル、南北200メートルであったが、現在の広さになった。天皇の尊厳をまもるために必要と考えられたのである。
直木孝次郎著 奈良 岩波新書より

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