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高崎市佐野地区②

2017.09.06.Wed.14:35
☆柳生さんのフェイスブックよりシェアしました。
2017年9月6日(水)
いにしえを往く・高崎市佐野界隈②
「上野三碑(こうづけさんぴ)と佐野古墳群」※9/3取材。
漆山古墳の所在地 群馬県高崎市下佐野町863-1付近。

▼シリーズ①の定家神社を後にして、新幹線の高架をくぐり北へ100mほど歩く。
地図にも載っていないし、住宅街区の只中なのでうっかり見落としてしまいそうな場所にあるのが「漆山(うるしやま)古墳」だ。

今回のターゲット、佐野古墳群は、藤原定家が活躍した鎌倉時代初期から700年ほど古代にさかのぼる大和~飛鳥時代の話になる。

▼漆山古墳は、この付近に集中していた「佐野古墳群」と呼ばれる70~80基の古墳の中でも盟主的な存在とされる前方後円墳。
現在文化財調査中らしく、ブルーシートに覆われていたが、下手に復元されていない生々しい姿に接することができる。

▼西日本で古墳の築造が減少していった6世紀ころ、東国での大型古墳の築造はピークを迎える。
『上毛古墳総覧』(昭和13年刊行)によると、4~8世紀に群馬県内で築造された古墳の数は8423基。その後の調査で12,000基まで確認されている。

大型古墳の数は現群馬県で97基確認される。千葉39基、栃木16基、東京・埼玉26基と比べても、関東ではダントツの数だ。

▼群馬に集中するのはさまざまな理由が考えられるが、当時湿地帯や荒れ野の多かった関東平野に比べて、赤城・榛名の火山から平野に至るなだらかな関東内陸部は、農耕に適した肥沃な大地が開けていたとされる。

だから畿内からの人も流入し、ヤマト政権とも早い段階で交流ができ、その傘下に入ったものと考えられるそうだ。
関八州の沃野が巨大な生産力を持つようになったのは、江戸幕府による利根川流路変更の工事、開墾や干拓事業が進んでからのことであろう。

▼物証として、これらの古墳からは朝鮮半島や中国大陸との関りを示す獣帯鏡や銅製水瓶などの当時の最先端を行く豪華な副葬品が出土している。

漆山古墳のある佐野一帯には、「佐野の屯倉(みやけ)」と呼ばれる大和政権の直轄地が開かれていたとされ、漆山古墳の被葬者も副葬品などから、佐野屯倉の管理者の地位にあった者ではないかとみられる。

▼古代の日本は文字を持たなかった。中国から輸入した漢字とそれを読み下しする際に発明されたカナ文字の組み合わせで、平安時代以後は日本独自の漢字かな混じりの記録法ができていった。

▼法律によって統治する中央集権政治をめざした大和政権は、行政の事務処理を正確に伝え、効果的な統治をおこなうために大宝律令(701年)を定めた。

そのためにも漢字が必要とされたのだが、一般民衆はもちろん文字など読めない。役人が主に口頭で文字を読み聞かせ、政府の法律や命令を伝えた。

▼「上野三碑」は、多胡碑、山上碑(やまのうえひ)、金井沢碑で、ユネスコの「世界記憶遺産」登録を目指す国内の候補になった。

多胡碑ができたのは8世紀初頭とされ、碑文によると、
「711年(和銅4年)3月9日に上野国片岡郡・緑野郡・甘楽郡(碑の原文は「甘良郡」)の中から300戸を割いて 新たに多胡郡が建てられた」ということと、これを決定した当時の中央政府官吏3名の名が記されている。
いまでいう行政の合併を布告する命令書を刻んだものだ、とされる。

▼山上碑と金井沢碑もこの佐野から至近地に建っている。
一帯に勢力を誇ったそれぞれの建立主が、先祖の追善供養を行うにあたって、当時の先進思想だった仏教によって行われたことを示して一族の優越性を誇ったものと解釈される。

碑文によると「佐野三家(さののみやけ)」の記述があることから、佐野屯倉を管理する者の子孫が建立したのではないかと推定される。

▼漆山古墳からほど近い「下佐野町第一公民館」脇にこじんまりとした「放光神社」がある。
前身は伽藍を持つ「放光寺」と伝わるが、脇に「史蹟 放光寺 放光明神跡」と刻まれた石碑がある。

背面の刻み文には
「抑そもそも吾力佐野ノ郷ヘ奈良時代既ニ闢ひらク 大化改新前屯倉ヲ設置セラル…」等と刻まれていて、佐野屯倉の存在を追記している。

▼佐野古墳群は昭和の急激な宅地開発と新幹線などの都市インフラ整備が急がれたことで、いまでは大半の古墳が失われてしまった。

漆山古墳も大きな前方後円墳ながら、方形の「前部」を大半削られてしまい、その跡地に道路やアパートが立ち並ぶ市街化の様変わりを見せている。
(シリーズの②は以上。次回③は、鎌倉時代中期の謡曲「鉢の木」のお話。)




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高崎市佐野界隈を歩く。

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定家神社から歩いてくると、空き地の向こうに「漆山古墳」の後円部墳丘が見える。

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説明会があったのだろう。日曜日だったためか、見学者もちらほら。

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佐野古墳群はこの漆山古墳を中心に分布する。
より大きな浅間山古墳や大鶴巻古墳はやや時代が古い。

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漆山古墳の横穴の立派な石室部。烏川対岸の産出石材だそうだが巨石だ。

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後円部墳丘の上。

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前方後円墳だったが、「前方」部分は何時の頃のことか、大半を削り取られてしまっている。

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墳丘上から西方向の新幹線高架を見る。
漆山古墳まで乗用車が入れるような街路が付いている。

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後円部墳丘を西側から見た。

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下佐野町第一公民館脇に「放光神社」がある

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放光神社の石碑ウラに「佐野屯倉」のことが刻まれている。近代に建てたものであろう。

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ユネスコ世界記憶遺産登録の国内候補、「上野三碑」。群馬県のサイトから。

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