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世界遺産富岡製紙場について考えた・・・・

2017.02.20.Mon.14:42
2月の日曜日、富岡製紙の周辺を散策してみた。
世界遺産に登録されてから、観光バスが何台もやってくるようになった。
電車で来て、駅から歩いている人も見かける。
商店街には、お洒落な店もチラホラ出てきた。
「はい、いらっしゃい」の掛け声もかけられ、にぎやかになってきた。
しかし・・・・
人々は、一体何を求めて、此の地に来るのだろう?
世界遺産に登録され、テレビで繰り返し何度も報道された場所に一度は行ってみたいのか。
そうしたマスコミによってつくられた「観光」をして満足なのだろうか?

そもそも明治時代の官営工場の「建物」に、本当に興味を持っている人は、一体何人いるのだろう?
と常々疑問に思っていた。
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富岡製紙近くの住宅地を歩いていたら
住宅地の中に細い参道のあるお寺を発見。
海源寺
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初めてのお寺だ。
地元の住民でなければ、気がつかないだろう。
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意外な発見があった。
富岡製紙の工女と工夫のお墓があったのだ。
「工女のお墓のあるお寺」龍光寺には、何度もいったことがあるのだが・・・
富岡市内にもう一か所あるという「工女のお墓のあるお寺」はここだったのか・・・
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昨年富岡製紙場内を有料ガイドさんに案内してもらった時は
「こちらは 官営工場で士族の娘さんが集まったので「あゝ野麦峠」のような悲劇はありませんでした。」と言っていたが。
実際はこの説明板にあるように60人も亡くなっていたのだ。
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現在は出版されていないが、高瀬豊二著の「異郷に散った若い命」という本がある。

☆9歳で死亡も
著者の高瀬豊二さんは戦前、治安維持法違反で投獄され、そのときの病気がもとで戦後右足を切断。
66年から3期12年、日本共産党市議として活動。
その間、製糸場創立100年に向け「長いあいだ心の一隅にひめていた工女の墓の調査をはじめ」ました。
富岡市史編さんにかかわり、91年に79歳で亡くなりました。
高瀬さんの調査では官営時代に亡くなった工女は56人。
富岡市の龍光寺と海源寺にある墓石は50基。
最も多い年が1880年(明治13年)の15人。
募集要項は「15歳から」なのに過去帳では9歳、13歳を筆頭に20歳までが31人。
出身県の最多は滋賀県の21人。
高瀬さんは、9歳10カ月の娘が、滋賀県から両親の手を離れて富岡の地に来てひとり寂しく死んでいったことなどに思いをはせ「文字も消えかかった墓石の傍にたつとき、一掬の涙なきを得ない」と書いています。

☆人間を書いた
開業時全国から窮乏した士族の娘を中心に400人以上が集められました。当時は鉄道もなく、徒歩、馬、かごでした。長野県の松代から富岡まで4日かけたという記録があります。
亡くなっても引き取る人はなく、同僚480人がお金を出し合い5人の工女の墓を建てた記録も残っています。
「故郷を思い、父母を思いながら死んでいった」と高瀬さんは書き、「日本資本主義発達のいしずえとなった」と工女たちに思いをよせています。
後の『女工哀史』にふれつつ、官営時代について「記録にあらわれた限りでは、その後に続く時代よりもよい労働条件だったといえるようだ」とのべています。
実行委員の一人、日本共産党の甘楽町議山田邦彦さん(56)は「高瀬さんは、そこで生きた人間を書いた。涙を流し、汗を流した人間がいたということだ」といいます。
この日の集い出席者は、高瀬さんの調査の模様を「自転車に乗ってこつこつと調べていた。すごい人だよなあ」などとしのんでいました。
詳しくはこちらへ

長野県松代出身の和田英さん
「富岡日記」を書いた。
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富岡日記はこちらへ


☆「理不尽」許さない女性群像
富岡製糸場の世界遺産登録に寄せて/米田佐代子

群馬県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」が、近代日本の産業遺産としては初めてユネスコの世界遺産に登録されることになった。
注目されるのは、決め手となったイコモス(ユネスコの諮問機関)の報告が、近代産業の貴重な遺構への評価とともに、「女性たちの指導者あるいは労働者としての役割」や「労働者の労働環境・社会的状況についての知見を増すこと」を勧告し、近代日本の女性労働の歴史に関心を持つよう求めた点である。

☆「富国強兵」と「生糸と軍艦」
1872 (明治5)年に開業した官営富岡製糸場では、当初エリート技術者養成の目的もあって「工女」には士族出身者も多く、当初は週休や8時間労働が保障されていた。
しかしまもなく労働条件は悪化、民間払い下げ後の1898 (明治31)年にはストライキも起こっている。
全国から集まった工女たちのなかには「15歳以上」という募集条件に満たず、10-12歳ぐらいの少女も少なくなかった。
入場後間もなく脚気になって歩けなくなり、同郷の工女の看病で入院生活を送った工女もいる。(上条宏之著『絹ひとすじの青春』)
「進取の気概にあふれた富岡製糸場」(藤岡信勝者『教科書が教えない歴史』)と持ち上げるだけではすまない現実があった。
各地の民間製糸場では、山本茂実著『あゝ野麦峠』で知られるような長時間労働や罰金制度などが横行したことも事実である。
なによりも明治政府の近代化=殖産興業政策は、日本がアジアの強国をめざす「富国強兵」の柱でもあった。。「生糸と軍艦」といわれたように、生糸は輸出の花形として外貨を獲得、それが洋式軍艦の輸入をはじめ巨額な軍事費の原資になったのである。
しかし、当時の工女たちの実態を「哀史」とみるだけでいいか。
指摘したいのは、彼女たちが労働のなかでつちかった「納得できないことには黙っていない」という精神である。
長野県松代出身の横田(和田)英は、後に当時の思い出を『富岡日記』に書くが、仲間とともに助け合いながら技術習得に「一心に精を出し」、時には差別的処遇に抗議の声をあげ、「野中の一本杉のように」まっすぐ生きたと語っている。
松代帰国後は近代的製糸場開設に力を尽くし、在来工法に固執する人びとに向かって堂々と自説を主張したという。


☆人間としての「めざめ」を今
こうした精神は富岡工女だけでなく、各地の民間製糸場で働く貧しい農村出身の工女たちの間にも生きていた。1886 (明治19)年、山梨県甲府の製糸工場主が連合して一方的に労働時間延長や貸金切り下げを強行した時、市内雨宮製糸では100余名の工女たちが「雇主が同盟規約という酷な規則を設けわたし等を苦しめるなら、わたし等も同盟しなければ不利益なり」と近くの寺に立てこもって「同盟罷工(ストライキ)」を決行した。
労働組合もなく指導者もいない時代に、同じ器械で糸をとる少女たちが自主的に団結して「理不尽」とたたかったのである。
今回の世界遺産登録を機に、近代日本の黎明期を生きた女性労働者たちの「人間としてのめざめ」を思い起こすことは、時代は違うが今もブラック企業や不当解雇に苦しみながら働く女性たちにとっても、大きな励ましになるのではないだろうか。
(よねだ・さよこ女性史研究者)
(2014年07月01日,「赤旗」より)

~こういう地元の良識のある研究者や市民の声が反映されているとは思えない。

海源寺西側の入り口
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細い道を下っていくと鏑(かぶら)川にかかる細い橋を発見!
車は入れないので、地元の人が買い物や通学・ウォーキングに利用していた。
こういう橋をウォーキングコースにできる人が羨ましい。
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「神田水道橋」という橋の名前
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そこから、眺める富岡製紙工場の煙突が遠くに小さく見えた。
あの煙突からモクモクと煙が上がっていた時のことを想像しながら、
この散策コースをまた歩こう。
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