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鹿児島県の「姶良市(あいらし)」について

2017.01.26.Thu.08:25
言葉の語源 その111

皆さん、久しぶりの語源のお話です。秋からずっと忙しかったので、今年は色々と散策して、また語源のお話も沢山ご紹介していく所存です。いつもながら長文で、老眼には酷でありますがどうぞよろしくお願いいたします。

皆さんは鹿児島県の「姶良市(あいらし)」と言う所をご存知でしょうか?桜島のある「鹿児島湾(錦江湾)」の北部にあり、朝鮮人陶工が発展させた薩摩焼の系統「龍門司焼窯」がある街でもあります。今日はこの姶良市のお話をしようと思います。

姶良市は元々姶良と言う地名ではありませんでした。江戸時代に入ってからここを「姶良郡」を制定してから姶良と呼ばれるようになりました。江戸時代以前は「始良郡(しらのこおり)」と呼ばれており、「姶良郡」は元々別の地区、鹿児島湾北東部にある現在の「鹿屋市(かのやし)」周辺にありました。「姶良」は「あひら」と表現し、鹿児島地方の方言では「ひ」を「し」と言うので、「姶良郡(あしらのこおり)」と発音し「始良郡(しらのこおり)」と読み方の類似、また漢字の類似から混乱が生じてしまいました。結局は双方「姶良」に統一されますが、元々の姶良郡は肝付と統合され消滅してしまいました。

さて現在の姶良市が「始良郡(しらのこおり)」だと言う事はお分かりになったと思いますが、この「始良」は「始羅」とも表記されました。実はこの「始羅」、その語源が「新羅」だったと言われております。元々大分県宇佐地方の人口の9割を占めていた新羅渡来人は、大和朝廷の命により、熊本、鹿児島地方の隼人制圧のために半数が鹿児島に移住をさせられます。その定着地が鹿児島湾北部であり、その地で新羅渡来人達は段々と勢力を強めて行きました。ちなみに鹿児島の島津藩藩主のご先祖様も、この新羅渡来人だそうです。

さて、姶良市の東部にこの島津藩藩主、島津義弘を祀る「精矛神社(くわしほこじんじゃ)」が鎮座しております。歴史は浅くここの宮司さんは島津義弘の末裔で、島津一族がこの神社を守り継いでおります。実はこの神社の境内に、大変興味深い物がありました。それは朝鮮伝来の手水鉢と石臼です。石臼は穀物を粉にするため挽く石でできた道具、手水鉢はお寺等で手を清め洗うために水をためる物だとはご存知かと思います。では何故ここに朝鮮渡来の手水鉢と石臼があるのか?それは椿窓寺の住職であった鳳山和尚が「壬辰倭乱(イムジンウェラン)」、「丁酉再乱(チョンユチェラン)」、文禄慶長の役で従軍した際に持ち帰ったと言われております。

当時島津藩からもかなりの武士が船で朝鮮に派兵されました。当時の船は船体を安定させるバラスト水等はなく、荷物の重量で安定させておりました。行きは武士がたくさん乗っておりましたが、帰りはほぼ空の状態で船が浮き安定しない事から多くの石製品を船に積んで帰りました。その時に積んだ代表的な物として、陵墓の文官武官石像、馬、羊、虎の石像、石灯篭、石塔、石碑、石橋等、ありとあらゆる石製品を船に積んで安定させたと言われております。ここの石臼と手水鉢もその一つです。日本に持ち帰られたこれらの品々は、現在も各地に現存しております。この石臼と手水鉢、当初は島津屋形にあった物が、島津藩主が亡くなった後に護国神社へ、さらに大正7年にこの神社に移されたと言う記録が残っておりました。

鹿児島県姶良市に鎮座する「精矛神社(くわしほこじんじゃ)」拝殿
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精矛神社の鳥居
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鳥居脇の由来書と石碑
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石臼と手水鉢の案内板
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拝殿右わきにある朝鮮伝来の石臼
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同じく手水鉢
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こんな形で置いてあります。
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いかがでしたか今日の語源話。
姶良市に行かれた際にお時間があれば、是非立ち寄られてみてください。
では、また次回・・・


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