FC2ブログ

豊臣秀吉の耳塚

2017.01.17.Tue.09:22
嘘みたいな本当の歴史話⑱

豊臣秀吉が起こした朝鮮(李氏朝鮮)への二度にわたる侵略戦争を日本では「文禄の役(ぶんろくのえき)」、「慶長の役(けいちょうのえき)」と言います。朝鮮半島では「壬辰倭乱(イムジンウェラン)」、「丁酉再乱(チョンユチェラン)」と言います。この侵略戦争で豊臣軍は、人、文化財をはじめありとあらゆるものを略奪して行きました。その名残や証が、日本各地にあります。代表的なのは、九州を中心とした焼き物の陶工達です。福岡県の高取焼、佐賀県の有田焼、伊万里焼、武雄焼、長崎県の波佐見焼、三川内焼、鹿児島県の薩摩焼、山口県の萩焼をはじめ、現在の日本においての焼き物はこの時に連れてこられた陶工達によるものです。

京都の豊臣秀吉ゆかりの豊国神社の目の前に長細い小さな公園があります。その脇に盛り土が施された石塔があり、その盛り土を含めた石塔は「耳塚(みみづか)」と呼ばれております。ご存知の方が多いと思いますが、ここには数多くの朝鮮人の耳、鼻が埋葬されております。「耳塚」は元々「鼻塚(はなづか)」と呼ばれておりましたが、表現が野蛮との理由で耳塚に変えられたそうです。

「壬辰倭乱(文禄の役)」の時、秀吉軍は豊臣秀吉の命により、朝鮮人の首を日本に持って帰りました。それは戦果の証を豊臣秀吉に見せるためです。「丁酉再乱(慶長の役)」の時には、首はかさばるとの理由で豊臣秀吉は耳を持ち帰る命令を下しますが、耳は二つあるので戦果の水増しをされる恐れがあるとの事で鼻を削ぐ命令を下しました。樽一つに1000人分の鼻を塩漬けにして、韓国の蔚山にいったん集められ、そこから佐賀県唐津にある名護屋城を経由して大阪に持って行ったそうです。

以前、肥前名護屋城の企画展示で拝見しましたが、大分県の大名や大分県の僧侶が従軍記を残しており、村一つをあっという間に焼き払い男ははりつけて槍で刺し、女子供は無条件で日本に連れて行ったそうです。日本に連れてこられた人々の内、博識のある者、技術のある者、またごく一部運よく召抱えられた者は各藩主が自国に連れて帰り、そうでない人々の多くは長崎に送られました。現在の長崎の観光地「眼鏡橋」付近は、片側は町がありましたが、対岸は湿地帯でそこに一旦住まわされたと言われ、高麗町と名付けられました。高麗町は名ばかりで家があるわけでもなく雨風をしのぐものなどなかったそうです。そして各藩は自分達の藩の財政の足しに、また武器購入の費用として朝鮮人達をインドネシア、インド、ポルトガル等に奴隷として売りさばいたそうです。その値段は3人で石鹸一つにも満たない金額だったそうです。現在イタリアには「アントニオ・コレア」性を名乗る人がいますが、そのご先祖様はここから売られて行った朝鮮人奴隷だそうです。

長崎に連れてこられた朝鮮人の中には、鼻のない人が少なくありませんでした。それは豊臣秀吉に戦果を報告するために、生きた朝鮮人の鼻も削いだからです。更に朝鮮から豊臣軍が撤退した後の記録によると、朝鮮でも生き残った人の中に鼻が無い人が多くいたそうです。鼻を削いで豊臣秀吉に送った武将は、その量によって報奨金が与えられたとも言われております。そして豊臣秀吉は日本に持って帰った首、耳、鼻等を丁重に埋葬して慰霊したと伝えられておりますが、それは美化された話で、持ってきた首、耳、鼻をみんなに見せつけて自分の力を誇示したと言われております。

耳塚に行く時にタクシーの運転手に話を聞くと、現在耳塚に行く人は珍しい。最近は修学旅行生もいかなくなったと言っておりました。自分達はこう言った負の歴史から学び、同じ過ちを繰り返さない努力をしなくてはなりません。是非多くの方が耳塚を訪れて、歴史から多くの事を学んで後世に伝え、日本と朝鮮半島における真の「親善」「平和」を考えてほしいと思った次第です。

さて、「嘘みたいな本当の歴史話・京都編」はこれが最後です。
次回からはまた他の「嘘みたいな本当の歴史話」をしようと思います。
また、「語源話」もいくつかネタを用意しておりますので、よろしくお願いいたします。
では、また次回・・・



京都にある「耳塚」
15972532_10210683807203358_7902008380145752504_o.jpg
耳塚の石板
15994575_10210683807243359_1436761616266657085_o.jpg
耳塚の案内板
16114872_10210683807163357_2183249016943866670_n.jpg
長崎の眼鏡橋
この右側はかつて湿地帯で、豊臣軍に連れてこられた朝鮮人捕虜が住まわされて「高麗町」と呼ばれておりました。
朝鮮人捕虜はここから海外に奴隷として売られて行きました。
15966019_10210683807563367_3138484792353698761_n.jpg


☆この記事に多くのコメントがよせられました。
そのひとつひとつに金さんは答えています。

①姜さん  何度か耳塚の慰霊祭や韓国からのお客様をお連れして行った事があります。
私のコヒャン、蔚山が出てくるとは思ませんでした!
人々がたくさん殺されたのも事実。
その上で日本に色々な技術や知識が伝わったのも事実。
歴史が真実を物語っています。


→姜さん蔚山が拠点だったのは、熊本の藩主であった加藤清正が本拠地を置いていたからです。
熊本の城下町にも、蔚山町があるのはそのためで、蔚山から多くの人を連れてきたからだと言われております。
自分達は歴史から学び、同じ過ちを繰り返さない様にしなくてはなりませんね。

② 学さん 息を飲む話ですね。秀吉の朝鮮出兵は為政者の間違ったやり方であったと思います。
朝鮮でも日本でも、いつも不幸に見舞われるのは大衆、民衆です。
為政者は高みにあって、自らは出ない。

金さんの言うように、歴史にほんとうに学ばなければなりません。それは、いま生きている者すべての道でしょう。

→ 学さん、長崎は残念ながら、原爆と開港の歴史はものすごく研究されておりますが、文禄慶長の役の歴史は皆無に等しいです。
唯一隠れキリシタンの歴史については、一部世界遺産登録のために研究が進んでおりますが、実はキリシタンの多くは朝鮮人でもあったんです。

また最近の大河で、豊臣秀吉の文禄慶長の役について「大義のない戦」と「軍師官兵衛」「真田丸」で表現されておりました。
自分は、それが唯一の救いと思っております。

過去は変えられませんが、未来は歴史から教訓を得ていくらでも作り上げて行けると思っております。
日本と朝鮮半島の平和と親善のためにも、自分達が使命を全うして後世に歴史を伝えなくてはならないと思っております。

学さん そうです、その通りです。
長崎における、朝鮮の歴史を掘り起こし、研究する、金さん、やって下さい。

人生はあっという間です。いま、取り組んで下さい。何度も過ちをおかさないように歴史に学ぶように警鐘をならすのです。
それは争うのでなく、日本と朝鮮が手を携えてやっていくことだと、私は思います。

③裕之さん 文禄・慶長の役について、もっと知らなければいけないと改めて思いました。
当時の朝鮮の内情(宣租〜光海君時代)や、後金の台頭〜清の建国、明国の滅亡へと、単に朝鮮との二国間だけの問題ではなく、東アジア情勢に多大な影響をもたらしたことまで含め、東アジア史観で俯瞰的に勉強して行きたいと思います。。。
ただ、勉強しようにも、良書が少ない気もします。。。

それと、その後、朝鮮通信使を通じて、悲しい歴史を乗り越える試みがあり、200年にわたってその努力が継続されてきたことも学びたいと思います。。。

→裕之さんの仰る通りです。
文禄慶長の役の負の歴史、そして朝鮮通信使の歴史。
これは大いに学び研究する事が大事だと思います。
そしてそれを基に、日本と朝鮮半島の親善と平和構築のために、自分たち大人が後世にしっかり伝え名蹴らばならないと思います。

肥前名護屋城には、史実を客観的に検証した冊子や書籍があります。
次回お越しの際には、博物館に問い合わせて見られてください。

④Y Hさん  子供の頃、アボジからしょっ中 歴史の話を聞かされました。残念ながら、触りの部分しか覚えてないので、キムポ先生の文を読み再学習してます。今の子供達にも、伝えたい歴史。是非、出版!願います。


⑤やまなか さん
以前金さんが載せられた陶器のお話から、そのルーツは何となく承知していましたが、今回、朝鮮からの手法が元であった陶芸がたくさんある事にびっくりです(o_o)真田丸にも一部でてきていました豊臣軍の朝鮮侵略内容や耳塚・鼻塚についても初めて知りました!(◎_◎;)
スポンサーサイト
コメント

管理者にだけ表示を許可する