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埋もれた歴史、朝鮮人陶工の話⑩ ~薩摩焼編~

2016.10.13.Thu.10:17
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埋もれた歴史、朝鮮人陶工の話⑩ ~薩摩焼編~

みなさん、引き続き薩摩焼のお話をさせていただきます。
苗代川(現美山)の朝鮮人陶工達は、薩摩藩直轄の管理下に置かれるようになり切米を拝領しますが、外部との接触禁止、外部との婚姻も禁止、風習、言葉等も朝鮮の物を維持させ、名前も日本名を名乗る事を禁止されて暮らして行きます。朝鮮人陶工達は元々別な技術者だった様で、苗代川で製陶につきながら、樟脳製造、養蜂、土木測量、医学、刺繍、瓦製造、木綿栽培等の仕事も手掛けていたようです。その中に「沈」一族がおりますが、初代は慶尚北道青松に本貫を置く「沈当吉」と言う人物だったそうです。歴代沈一族で一番活躍したのは幕末の十二代目沈壽官でした。

十二代沈壽官は幕末期の藩営焼物工場の工長を務めます。1867年のパリ万博に薩摩の朴正官が薩摩焼を出品すると大絶賛を受けました。続く1873年のウィーン万博に十二代沈壽官が出品をして更に大絶賛を受け、世界に「SATUMA」の名前をとどろかせ薩摩焼の地位を確固たるものとしました。しかしその後薩摩焼は急激に衰退の一途をたどります。それは藩制度の廃止、つまり廃藩置県により藩営の窯が全て県所有の民間会社になったからです。そして苗代川の朝鮮人陶工達は藩から切米を拝領していたのに、廃藩置県後は「士族」扱いではなく「平民」扱いを強いられ、大きな差別を受ける様になります。

十二代沈壽官はこのままではダメだと、私財をなげうって窯と工場を購入して、現在の「沈壽官窯」の前身、「玉光山陶器製造場」を設立します。そこで焼成した薩摩焼は、国内で数々の賞を受賞して輸出にも乗り出しますが、1905年十二代沈壽官は亡くなってしまいます。十二代沈壽官の長男は父の名を襲名して、十三代沈壽官として活躍をしますが、日本の植民地政策により偏見と差別の苦難の時代を迎えます。十三代目沈壽官は苗代窯で陶器組合長として40年もの間尽力を尽くして1964年に亡くなってしまいます。

後を継いだ長男は更に名前を襲名して、十四代目沈壽官として窯業に努めます。そう、この従四代目こそ、司馬遼太郎先生の短編小説「故郷忘じがたく候」の主人公なんです。十四代目は1989年に大韓民国名誉総領事就任を承認され、1998年に行われた国際的イベント「薩摩焼400年祭」の成功により、金大中大韓民国大統領より民間人としては最高位にあたる大韓民国銀冠文化勲章を受章しました。現在は高齢でもあるので、長男が十五代目沈壽官を生前襲名して活躍をしております。

沈壽官窯を訪れ立派な門をくぐった先には、済州島の「トルハルバン(石のおじいさん)」と日韓の国旗がお出迎えをしてくれます。そして中庭には二つのお墓と朝鮮の窯の神様が祀られております。二つのお墓は竿石に、初期のハングル訓民正音表記で名前が彫られており、この家の元の主に仕えた朝鮮人の下男下女とも、朝鮮から連れてこられた時後に従事した宮女とも言われておりますが詳細は不明だそうです。さらに奥には、歴代沈家の作品や歴史が展示された建物と、十四代目沈壽官、十五代目沈壽官の作品が販売されているギャラリーがあります。ギャラリー横には年に一度火入れが行われる、沈家代々の登り窯も見る事が出来ます。

苦悩の時代を生き抜き差別と偏見に苦しみ生き抜いた苗代川の朝鮮人陶工とその末裔は、現在もその技術を伝承し続けております。次回は、窯業以外に活躍した苗代川の朝鮮人陶工の末裔のお話をしたします。

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