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埋もれた歴史、朝鮮人陶工の話① ~薩摩焼編~

2016.10.03.Mon.11:42
★金浩さんが写真11件を追加しました。

埋もれた歴史、朝鮮人陶工の話⑨ ~薩摩焼編~

みなさん、前回(8月25日投稿)から一月以上が経ってしまいましたが、今日も薩摩焼の続きをお話しします。その前にちょっと予備知識を・・・
薩摩焼と一言で言ってもその系統は5つあり、2系統は絶えてしまいましたが、美山の「苗代川(なえしろがわ)」、姶良で始まり後に鹿児島城下に移った「堅野(たての)」、加治木の「龍門司(りゅうもんじ)」の3系統が現在も残っております。もちろんこれらすべて、連れてこられた朝鮮人陶工が陶祖で開窯した系統です。

南原城近辺で捕えられた朝鮮人陶工達は3集団に分かれて薩摩に連れてこられました。薩摩に上陸した朝鮮人陶工の記録では、前回お話しした照島に第一集団18性43人(安、燕、張、李、朴、卞、林、鄭、車、姜、陳、崔、盧、羅、丁、何、朱、黄)でした。このうち黄、羅、燕性は一代で絶えてしまい、安、張性一族は「焼物指南」のために琉球(沖縄)の地に送られ、現在那覇市首里城下にある壺屋焼の陶祖となります。第二集団は東市来神之川に3性10人(金、申、盧)が上陸し、第三集団は鹿児島市前之浜に男女20人ほど(李、渭、川、光、春、金)が上陸します。このうち金、光性は朝鮮国王の親族だとされ本国に送還され、残りは鹿児島市内の高麗町に居住させられます。ちなみに高麗町と言う地名は、朝鮮人陶工達が居住した事から、そう呼ばれるようになりました。

さて、照島付近に上陸した集団は、数々の迫害に会い、後に苗代川(現美山)に移住を決心します。そこには高麗町に居住していた集団も加わり、朴平意が薩摩藩から庄屋の称号と4石を与えられ、苗代川は焼物の集落に変わって行きます。しかしながらここの朝鮮人陶工達は、外部との接触を制限されたり、婚姻関係も陶工同士ではないとダメだと、かなり厳しい制限の中で生活を送る様になります。この他にも様々な制限があり、ある意味篭の中の鳥状態での生活でした。何代にもわたって言葉は全て朝鮮語であったとも言われております。

苗代川に移住した陶工達は時折山の上に登り、望郷の念から山の上から望む島(甑島といわれている)を朝鮮半島だと思い懐かしみ眺めていました。そんなある日、海の彼方から大きな火の玉が飛んできて蜂巣ヶ谷の大岩の上に落ち、昼夜問わずこうこうと燃え続けたそうです。 それを恐れた陶工達は、その大岩を奉ることにしました。すると火の玉は消えたので以来この大岩を朝鮮の神、陶器の神として信仰の中心である「玉山神社」を創建しました。実は最初の祭神は建国神話の「檀君」だったんです。玉山神社は地元の人々は「コレガンサー(高麗神様)」と呼び、神事や祝詞は朝鮮語と朝鮮の打楽器で行われていたそうです。その資料は現在も、東郷茂徳記念館に展示されております。

玉山神社に行く途中、左側には集落の共同墓地があります。そこには朴平意の記念碑があり、道沿いの藪の中には最近見つかった初代車氏、二代目車氏のお墓もあります。この車氏は陶工でありながら石積みの技術も持っていたと言われております。詳しい資料は残っておりませんが、鹿児島市内の江戸時代初期に作られた石橋建設には、この車氏も加わったとされております。

さらに苗代川の陶工達の中には、樟脳の精製技術を持った人もおりました。樟脳とは現在で言う衣類の防虫剤の事で、ドイツ語で訳せば「カンフル」、つまりカンフル剤の原料でもあったんですね。当時は気付薬としても多く使われておりましたが、金、銀、銅に次ぐ貴重品だったそうです。当時世界の樟脳の9割はここ薩摩藩から輸出されており、そのすべてを苗代川の朝鮮人陶工が精製していた事はあまり知られておりません。この樟脳を精製した人物は鄭宗官と言う人であり、元は陶工ではなく医術関係者だったのではないかとされております。現在も美山インターから下った道沿いに、この事が記された大きな記念碑が建っております。

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