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古代の筑紫君磐井について

2016.03.11.Fri.08:43

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皆さん、福岡県八女市には大小様々な300基の古墳があり、古墳の街として有名です。これらは八女古墳群と呼ばれ、考古学的にも歴史学的にも大変重要視され、一説には、ちゃんと調査をすれば1000基ほどあるのではないかともいわれております。古墳群の中でもひときわ大きいのは、「岩戸山古墳(いわとやまこふん)」と呼ばれる古墳ですが、北部九州最大の前方後円墳なんです。今日はこの古墳に関連するお話をしたいと思います。

岩戸山古墳は被葬者がほぼわかっている古墳としても有名で、その人物は「筑紫君磐井(つくしのきみいわい)」と言う人物です。西暦507年、近畿の大和朝廷では第26代天皇に継体天皇(けいたいてんのう)が即位します。時を同じくして九州地方では筑紫君磐井が北部九州を治めておりました。記録によれば、継体天皇の側近が筑紫君磐井で、新羅が伽耶に侵攻して統合したので、新羅から伽耶を奪還するために大和朝廷が援軍を出したそうです。しかし筑紫君磐井は密かに新羅から賄賂を受け取っており、大和朝廷に反旗を翻して援軍を阻止し、西暦527年九州の地で朝廷軍と大戦になり、翌年西暦528年に敗北して筑紫君磐井は殺されてしまったと言います。この事は「磐井の乱」として記録に残っている史実だと言われております。しかし、伽耶はこの時点ではまだ滅ぼされておらず、新羅が伽耶に侵攻したのは磐井死後の西暦532年であり、伽耶の完全統合は西暦562年なんです。では一体、「磐井の乱」とはどういった大戦だったんでしょうか?実は「磐井の乱」の裏には、他の理由が見え隠れしておりました。

筑紫君磐井一族の発祥地は、福岡県筑紫野市筑紫だと言われております。ここには現在、筑紫神社が鎮座しており、その祭神は元々「白日別(しらひわけ)」と言う神様でした。この神様の「白(しら)」は「新羅」と言う意味、「日(ひ)」は「太陽」、「別(わけ)」は「分かれた」と言う意味で、「新羅渡来の太陽神」と言う意味なんです。そしてこの筑紫神社の祭祀を行っていたのは筑紫君一族だったんです。つまり太陽信仰の新羅渡来集団が筑紫におり、それが筑紫君の一族だったんです。こう言った事から、筑紫君磐井は新羅と密接な関係でありました。逆に当時大和朝廷は百済と密接な関係でありました。また、当時の継体天皇と筑紫君磐井は、側近関係と言うよりも互いに対等な立場であって緩やかな上下関係があり、お互いが百済と新羅との密接な関係であった事から、日本での新羅と百済の代理戦争だったのではないかと言われております。

さて、お話は古墳に戻りますが、岩戸山古墳はいまだかつて発掘調査が行われておりません。これには深いわけがあります。一般的に古墳には埴輪が祀られておりますが、岩戸山古墳には沢山の盾、弓、靫、相撲取り、武人、馬等の石像が祀られていました。またここを中心とした福岡県南部、熊本県北部には共通する武人の石人像が祀られている古墳が数多くあります。これらは筑紫君磐井の一族や近親者、側近ではないかと言われており、装飾古墳が多くあり、そこにはこの石像の盾、靫、文様等が描かれている所から、岩戸山古墳も装飾古墳ではないかと推測されているようです。今発掘すると、キトラ古墳の二の舞になるので、壁画保存技術が確立するまでは発掘しないそうです。でも電子調査が行われ、何処に石室があるかは確認が取れているそうです。

今日の語源話、ちょっと難しいと思いますが、ご理解いただけましたでしょうか?
八女と言ったら、日本一高いお茶の町。
今日は八女茶の焼酎割をあおり、八女で買ったヨモギ餅をかじりながら、遠き古代の筑紫君磐井に思いを馳せたいと思います。
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