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武蔵國幡羅郡(むさしのくにはたらのこおり)

2016.01.27.Wed.11:19
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金浩さん

皆さん、まだまだ埼玉には渡来人の痕跡が沢山あります。秩父から西に下った所に、埼玉県深谷市がございます。この一帯にはかつて、渡来人が入植した痕跡があります。今日も引き続き埼玉県にまつわる渡来人のお話、深谷市一帯の事をごお話したいと思います。

さて、深谷市東部と熊谷市にまたがる一帯には、大小様々な古墳と歴史ある神社が数多くあり、古代この一帯を「武蔵國幡羅郡(むさしのくにはたらのこおり)」と呼んでおりました。「武蔵國」は埼玉県、東京都、神奈川県の一部にまたがる古代国名です。幡羅郡は諸説色々ありますが、加羅系新羅渡来人、秦氏(はたうじ)氏族が多く住んだことから名が付いたと言われております。郡設立年についてははっきりしておりませんが、武蔵國が設立する以前から、ここ幡羅郡には秦氏が入植していたと言われております。深谷市の「原郷(秦郷)」や「唐沢川(加羅沢川)」、「幡羅(ハタラ)町」、熊谷市の「上奈良」、「下奈良」、そして「奈良神社」等、各地名の語源に渡来の痕跡がある事は確かです。

さて、幡羅郡のお隣、現在の深谷市西部と大里郡寄居町一帯は古代、「武蔵國榛沢郡(むさしのくにはんざわのこおり)」と呼ばれておりました。実はここも語源が加羅系渡来人、秦氏ではないかと言われております。

幡羅郡、榛沢郡のお隣、深谷市南部、熊谷市、大里郡寄居町、比企郡小川町一帯を、古代「武蔵國男衾郡(むさしのくにおぶすまのこおり)」と呼んでおりました。男衾郡の中心部は、現在の関越自動車道花園インター西側の、現深谷市本田と言う所ではないかと言われております。この本田にある凸版印刷深谷工場付近はかつて、「百済木郷(くだらぎごう)」と呼ばれておりました。ここの工場敷地内には百済木遺跡があり、そこから住居跡、集落跡が見つかり、男衾を治めていた郡司(郡長)が住んでいたのではないかと言われております。百済木郷に住んでいた郡司の名は、「壬生吉士福正(いぶのきしふくしょう)」と言う人で、名前にある「吉士」とは百済や新羅の階級を表す言葉であり、地名を見てもお分かりの通り百済の渡来人なんです。

この壬生吉士福正は、莫大な財産を持っていたと言われており、古文書を読むとその事がわかる様な記録が残っておりました。郡司になれば一生涯税金が免除される厚遇にあやかりますが、家族は対象外でした。そこで壬生吉士福正は、自分の二人の息子の一生涯分の税金を一括でまとめ払いした記録が残っております。また東京都国分寺市には古代、国営の寺院「国分寺」があり、そこには仏舎利の「七重の塔」がありましたが、落雷により焼失してしまいました。そこで壬生吉士福正は私費を投じて再建を図り、仏教の習いに従い本来あるべき敷地の中心部に位置を変えて、七重の塔を新たに建てたとの記録があります。現在の金額にして十数億の金額です。壬生吉士福正の懐の太さと、財力が半端ではなかったことがわかりますね。

さて、百済木遺跡(凸版印刷深谷工場)北側に、鹿島古墳群があります。荒川の河川沿い1キロにわたって、56基の円墳が確認されており、壬生吉士福正一族の墓所だと言われております。現在は男衾と言う地名は残っておらず、駅名や施設名でしか確認できませんが、男衾郵便局近辺の地名を「牟礼(むれ)」と言います。これは古代朝鮮半島の言葉で、「村、集落」を意味し、地名の語源に渡来人の名残を現在に残しております。男衾郡の入植渡来人達は、焼物の技術が長けており、瓦や須恵器を焼いた窯跡が4カ所も見つかっており、国分寺の瓦もここで焼いたと言われております。

さて、今日の埼玉深谷地方のお話、いかがでしたでしょうか?
まだまだ続く埼玉渡来人話、次回もこうご期待!!
ではまた次回・・・

※春になったら、地図を片手に旧百済木郷・牟礼を歩いてみたい
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