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佐賀県佐賀市唐人町にまつわる話②

2016.01.16.Sat.17:00
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佐賀県佐賀市唐人町にまつわる話②

さてさて、前回お話しした佐賀県佐賀市の唐人町。
ここには記録によりますと、文禄・慶長の役(1592〜1598)で鍋島藩に連行されてきた180余人もの朝鮮人が住んでいたとされております。
住人は、陶工、行李工、飴工、織物工、医師、学者、etc…さまざまなすぐれた職人ばかりだったそうです。
その中でも、後の日本においての染物革命の担い手となった医師がおりました。
その名は李九山といます。
この李九山、日本名を九山道清(くやまどうせい)と名乗り、後に九山庄左衛門と改名します。
元々医術の心得があった李九山、壬辰倭乱(文禄・慶長の役1592〜1598)の時に鍋島直茂に医師として捕らわれて佐賀に連れてこられます。
そこで前回紹介した李宋歓の計らいにより、佐賀の唐人町に住むこととなり、李九山は唐人町で製薬業につき、薬房(薬屋さん)を営みます。
元々手先の器用だった李九山は、染物の技術も持っており、製薬業の傍ら染物業も始めました。
この染物は「道清更紗(どうせいさらさ)」よばれるようになります。
この道清更紗は、木版と紙型を使い布に印刷するような形式で染め抜く手法で、後に「鍋島更紗」と呼ばれ、藩主により保護奨励されて行きます。
李九山の鍋島更紗は御用品(藩主専用の品)として扱われ、大名の贈答品や幕府献上品も手掛けたと言われております。
ちなみに現在の着物の形態が確立されたのは、豊臣秀吉によってだと言われており、江戸時代にその着物が着られるようになった陰には、この鍋島更紗の技術の影響を受けた染物があったからだと言われております。
全国的染物革命を起こし、その名をはせた鍋島更紗、その技術は門外不出の一子相伝でしたが、途中代が途絶えてしまい親族の手により受け継がれていきますが、大正初期にとうとうその技術は途絶えてしまします。
現在は、偶然発見された鍋島更紗秘伝書により、佐賀県鹿島市の方がまた再興させております。
李九山は没後、李宋歓同じ、佐賀市唐人町の鏡円寺に安置され、今も一族と一緒に眠っております。

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