FC2ブログ

ニソの杜

2020.03.30.Mon.09:31
みちしる
動画はこちらから

福井県
主な撮影地:大飯郡おおい町

福井県おおい町・大島(おおしま)地区には、住民が太古の昔から、畏れ敬ってきた聖地があります。「ニソの杜(もり)」と呼ばれる、田畑に囲まれた小さな森。ニソの杜は、大島地区に33か所。 中口(なかぐち)、浦底(うらそこ)などそれぞれ名前がついています。杜には、この土地を開拓した先祖の亡骸(なきがら)が葬られていると言われています。年に1度、杜ごとに決められた家が神事を執り行います。神事の時以外、杜に立ち入ることはできません。11月、神事の日。杜へ入り、赤飯などのお供え物を捧げます。遠い昔、海沿いの険しい山を切り開いてくれた先祖への祈りが守られる、ニソの杜です。
(この動画は、2017年に放送したものです。)
スポンサーサイト



原発密集地の聖なる森 ニソの森

2020.03.30.Mon.09:20


福井県大飯郡おおい町大島半島に点在する杜。その杜を聖地とする信仰があり、大島を開拓した24の先祖が祀られているといわれている。毎年、11月22日23日に祀りが執り行われる。祀りの日以外は決して近づいてはならないとされている。タモや椿などの照葉樹が特徴的に見られ、杜の木を切ると不幸がおとずれるという。
日本に現存する数少ない聖地で、今その存続が危ぶまれている。

https://www.facebook.com/nisonomori
https://casamoz.org/common/pdf/cmma_n...

橿原・洞集落移転から100年 「強制的だった」

2020.03.27.Fri.11:26
奈良県)神武天皇陵見下ろす 橿原・洞集落移転から100年 「強制的だった」 部落解放同盟全国連の三宅さん研究成果、発表

戦前に行われた神武天皇陵や橿原神宮の拡張政策の一環として1919年から翌年にかけ、全戸の移転を余儀なくされた旧奈良県高市郡白橿村大字洞(ほら、現・橿原市の一地区)の歴史を掘り起こす部落解放同盟全国連合会大久保支部(準)=準は準備会の意=の三宅法雄さんが23日夜、「奈良・洞村の強制移転から100年~部落差別と天皇制について考える」と題して、大阪市北区扇町2丁目の市北区民センターで研究成果を発表した。

 自主的な献納だったとする説が流布されているのに対し、「天皇陵を見下ろすのは恐れ多い」として強制的に移転されたとみる三宅さんは、明治・大正期の文書や書簡、新聞記事、古老らへの聞き取りなどをもとに見解を述べた。約50人が参加し熱心に聞き入った。

 大阪府民らでつくる「世直し研究会」の第32回勉強会。三宅さんによると、畝傍山(198.5メートル)の北東側中腹にあった洞集落の全208戸、計1054人が立ち退いた。三宅さんは「ほうら」と昔ながらの呼び名で集落を語り、「部落民が神武陵を見下ろすのは恐れ多いと、現在の大久保町に引きずり下ろされた。私の(現在の)家は神武陵から直線にして100メートルの地点です」と自己紹介した。

 神武陵は1889年に位置が決定され、1898年拡張整備が始まった。1913年、後藤秀穂が著した「皇陵史稿」は「御陵に面して新平民の墓がある」と洞集落を非難している。4年後に奈良県が示した移転理由書の中には「神武御陵を眼下に見下ろす地位にありて恐懼(きょうく=たいそう深く恐れ入ること)に堪えざること」とある。三宅さんはこれら資料を参加者に渡して解説した。国内で洞集落の強制移転にまつわる論文第1号は立命館大学教授の鈴木良氏(故人)の著作という。

 当時、県が示した移転理由の中には、衛生上の住宅改善を必要とし、現状の土地では日当たりが悪く、地場産品の下駄表(げたおもて)の乾燥に困難とし、移転すれば生活が改善されることを示唆する。一方、三宅さんによると、移転先として選ばれた土地は、昔から「おおくぼ」と呼ばれ、その名の通り、雨が降ると水が集まりやすい低い窪地だ。洞の人々が引っ越してくることが決まると、土地に面した四条町と大久保町(いずれも橿原市)で反対の声が出て、2地区とも墓地の転入を拒否した。

 移転のための家屋の解体は1919年に始まり、人々は大八車に家の部材を積んで運び、全戸の移転は2021年1月、完了する。過酷な労役だったのか、移転の過程で生後1年以内の乳児8人を含む13人が死亡したという。自作農は3戸のみで、移転前の耕作地は村外地主の田畑が相当な比率を占めた。移転の補償金は全戸で26万5千円と、当初より増額されたが、耕した農地は献納された。

 この日の発表で、三宅さんは神武天皇陵が史実に基づかないことを繰り返し指摘した。強制移転にまつわる調査をする上で欠かせない問題になる。戦後まもない民主主義の高揚期には「洞領を吾々に返せ」と返還運動も起こった。

 人煙が絶えた集落跡には共同の井戸が残り、今も水が湧くという。三宅さんは年内にフィールドワークを計画している。「洞が移転した大久保町は現在、土地のかさ上げや排水などの治水工事が実施されているが、移転した当時は大変な苦労があったとお年寄りから聞いた」と100年前の人々の無念に思いをはせ、「この節目の年に語ることができてうれしく思います」と話した。

詳しくはこちらへ

本郷埴輪窯跡と土師(どし)神社へ

2020.03.26.Thu.09:58
藤岡市本郷


久しぶりに仕事から開放された。
次の仕事へ行く前に一息つきたい。
ということで 気分転換に藤岡へ

こんな簡単な文章でフェイスブックにアップした。
「藤岡歴史散歩NO1
遂に来た!念願の土師(どし)神社!
〜夢は、必ず叶うのね〜
神流川が近くに流れる本郷にあります。
その近くに本郷埴輪窯跡も!
まさに古代史ファンの聖地といえるウットリな異空間でした。
ひと息つけたわヽ(^o^)丿」

アップしたら金浩さんから
「土師氏は渡来系氏族。焼き物と古墳作りのエキスパート氏族ですね。祖先は天日槍です。
ここはノーマークでした。!!😢」
深まった嬉しいコメントが。

長崎に住む金氏には、直ぐ散策は困難な模様。
コロナ騒動が終息するまでは、近場散策をしようと決めた。
観なきゃいけない場所は、まだまだ群馬にも沢山あるのよ。

この神社の読み方について、最近、金達寿さんにハマり、金さんの「日本の中の朝鮮文化」シリーズを全部読破した友人が
「どし」神社と読むことにクレームをつけてきた。

「この間の土師神社のことですが、

尾崎喜佐夫さんの1950年の本を読んでいたら、
はじじんじゃと振り仮名がしてありました。
やはりはじじんじゃですよ。

「古墳のはなし」という尾崎喜左雄さんの本、お読みになったことありますか?
50年の本なので、まだまだ研究途中で、今とはだいぶ見解に違いのあるところはありますが、
尾崎さんが、どのように古墳と取り組み、古代に思いを馳せていたか、
肉声で語ってるような文章で、楽しいです。
丹念に一つ一つ調べて、特徴毎に分けて編年化してく苦労も目に見えるような文章です。」

これに対する私のお返事は

「多分、地元では土師を「どし」と読んでいたのだと思いますよ。地元の方が、藤岡市の白石を「しろいし」と読んでいると教えてくれました。
そういう地域の昔からの独特の地名があるのだと思います。本郷埴輪窯跡に、尾崎喜佐夫さんが、発見調査したと説明板にありました。」

でした。

189966964_土
290332474_土

489826055_土
590270489t⒥窯
389249976_窯
484226292窯
190331202_窯