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奈良県広陵町 百済の里を歩く①

2018.11.28.Wed.11:11
奈良県 広陵町に
百済寺という寺があるという。

そこに 行ってみたい。
そこに、百済からの渡来人が住んでいたのだろうか?

多分、観光地ではないので、下調べしていかないと 辿り着けないだろう。
普通の住宅地の中に ポツンと建っているのだろう。

いつか行ってみたい。

そんな思いを持ちつつも 何年も果たせなかった。
奈良には 何度か行ったのだか、バスツァーだったり、歴史に興味ない夫と一緒だったり

しかし、今回は 一人だヽ(^。^)ノ

何としても 念願の百済寺へ行こう。

というわけで、JR奈良駅から桜井へ
桜井駅から近鉄に乗り換えて「松塚」という寂しい駅で降りた。
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誰もいない駅
駅員さんに
「百済寺へ行きたいのですが、バスはでていますか?」
と、聞いたら
「バスはないし 百済寺も知らない」という返事

駅員さんも知らないの~
ビックリ!
観光地でないってことは、こういう事なんだと再認識。
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仕方なく、自宅からプリントアウトしてきた地図を頼りに歩きだす。
かつらぎ川沿いのアスファルトの道路をひたすら北上した。
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ひたすら、ひたすら 北上した。
約一時間くらい 歩いただろうか?
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少し雨がパラついてきた。
どうしよう!
傘がない。
タクシーも呼べないし、かなり危機的状況!
実はいつもの折畳傘を忘れてきたので、昨日 安物の柄の長い傘を買ったのだが、今日それを持って歩くのは 大変だったので、ホテルフロントに寄贈してきてしまった。
本日は夜行バスで帰る日なので、荷物は宅急便で自宅行き。
→いつものパターン
そうしないと、歩けない。
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進行方向に大きなグリーンのドームが。
何だろうと思ったら、ゴルフの打ちっぱなし練習場
広陵プリンスゴルフだった。
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グリーンのドームを過ぎてから、百済寺とは、反対方向の
広陵町役場へひとまず行ってみることにした。 
まず役場に行けば、何らかの情報をゲットができるだろう。
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かつらぎ川沿いから15分くらいで、広陵町役場に到着。
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役場でトイレ休憩をすませて、外に出たら、嬉しいことに循環バスがあることに気がついた。
どこまでいったも100円
ラッキー!
良かった。
帰りは この循環バスに乗ろう。
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時刻表みたら、現在11時で 次のバスは12時24分
だったら、歩こう。
距離的にも 大丈夫そうだ。
雨も大丈夫そうなので、また、かつらぎ川方向へ戻った。
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また、15分元来た道を速足で歩き、かつらぎ川を渡ったら、何か標識らしきものが
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なっなっなんと 「百済寺」の標識だった!
嬉しかったヽ(^。^)ノ
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遂に辿り着いた。
のどかな里の秋の風景に癒された。
百済の里を眺め 一人感動。
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しかし、道路下に墓地発見!
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しかも「百済共同墓地」とは!!
ここは 本当に日本なのか。
古代の百済国にタイムスリップしたような気分になった。
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誰もいない集落外れの共同墓地へ
突き当りの建物の中の
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お地蔵さま二体の後ろに
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なっなっなんと!火葬場があった。
つい、最近まで ここで火葬していたのであろうか?
ちょっと 怖かった。
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この張り紙にもドキッ!
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集落に入った途端、凄いものを見てしまった。
見てはいけないものを見てしまったのかもしれない。
この集落は、奈良盆地にあり、葛城川と曽我川の間にある。
曽我川は、かつては百済川と呼ばれていた。
百済国滅亡(660年)後、多くの渡来人がこの地に入植したらしい。
肥沃な田園が広がる土地に、入植し、人口増加して、一部の人々が明日香村へ移住したらしい。
百済共同墓地、百済寺、百済川、百済集会所
全てに 百済の地名をつけ、でも、駅長さえ知らないという不思議な百済の里
これこそ、現代日本の隠れ里では、ないだろうか。
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再び歩き出した。
向こうに見えるこんもりした林のような場所が多分百済寺だろう。
塔の先端が、かすかに見えた。
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あの林目指して、歩こう。
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重厚な大和棟造りの家が
代々の農家だったのだろうか
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道路脇のわずかなスペースに見事な家庭菜園があり、ミカンもたわわに実っていた。
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柿も実っていた。
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ミカンの木の向こうに百済寺の塔が見えた。
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集落の家並みの向こうに百済寺があった。
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遂に到着。
感無量。
奈良県北葛城郡広陵町百済の百済寺は
神仏習合して 神社の境内に 佇んでいた。
重層的に百済から渡来した人々が入植し、定住したこの地の歴史を無言で語っていた。
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三重塔(重要文化財)は鎌倉時代中期の建立。
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説明番に板には、こうあるが、Wikiによると
「1997年以降、桜井市吉備(安倍文殊院の西方)の吉備池廃寺の発掘が進むにつれ、伽藍の規模、出土遺物の年代等から、この吉備池廃寺こそが百済大寺であった可能性がきわめて高くなっている。」そうだ。
しかし、それは私にとってはあまり重要なことではない。
奈良盆地のほぼ中央のこの場所に、百済から渡来した人々が、1400年近く住み続けているという事実だけで十分な気がした。
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つづく



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憧れの入鹿神社へ⑥

2018.11.28.Wed.09:15
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写真は 小綱町 入鹿神社 ご神体 入鹿木造
この続きは、後日入力します。

憧れの入鹿神社へ⑤

2018.11.27.Tue.09:59
そもそも 谷口雅一氏の「大化改新」隠された真相によると
蘇我氏=逆臣史観は、日本書紀によって、植え付けられたものらしい。

☆彡天皇家最大の閨閥としての蘇我氏

~以下、その叙述に入る前提として、読者に是非頭に入れておいてもらいたいことがある。
それは、蘇我家と天皇家の婚姻関係である。
蘇我氏といえば即ち逆臣であり、天皇家と対立する存在としてイメージされることが多いが、六、七世紀において、最も天皇家と
血の繋がりの深い豪族であったことは見過ごされがちである。
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系図を見ると、馬子の父である蘇我稲目は二人の娘、小姉君と堅塩姫をそれぞれ欽明天皇に嫁がせている。
小姉君が崇峻天皇を 堅塩姫が推古天皇と用明天皇をそれぞれ生んでいる。
稲目は、三人の天皇の外戚として大和朝廷に確固とした基盤を築いたのである。
一方、これを馬子からみると、三人の天皇は彼の甥や姪にあたる。さらに馬子は、娘の刀自古郎女と法堤郎女を、それぞれ有力な皇位継承者と目されている厩戸皇子(聖徳太子)と後の舒明天皇に嫁がせている。馬子もまた、父親の稲目同様に、天皇家と確固たる姻戚関係を築いていたことがわかる。
つまり系図を眺めただけでも、こういえるのではないか。
稲目以来、蘇我氏は天皇家との姻戚を通じた強い結びつきを維持し、それを自らの最大の権力基盤したのではないか、と。
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憧れの入鹿神社へ④

2018.11.22.Thu.11:14
駅から徒歩20分くらいで、住宅地の中にポッカリ田んぼが現れ、その先に入鹿神社が鎮座していた。
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着きました。ヽ(^。^)ノ
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参拝者用駐車場の標識には、正連寺大日堂より先に入鹿神社と書いてある。ヽ(^。^)ノ
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鳥居の右手が入鹿神社 左手が大日堂。
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入鹿神社の拝殿
なんと!拝殿の両脇に入鹿神社ののぼり旗がたなびいているではないか!!
門脇貞二氏にこの入鹿神社の晴れ晴れた姿を見せてやりたかった!
(門脇氏は2007年に他界している。)
拝殿の前で感動の涙が流れた。
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こちらが入鹿神社本殿
拝殿の後ろに鎮座ましまして、隠れて見えないようになっている。
御神体は木像の素戔鳴命の立像と入鹿大臣の坐像二体が奉安されているそうだ。
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いつの間にか入鹿神社は古代史マニアの聖地になっていたようだった。
入鹿神社公式HPはこちら




憧れの入鹿神社へ③

2018.11.22.Thu.10:12
近鉄橿原線の八木西口で降りた。
不安なので、駅員さんに訊いてみた。
「あの~入鹿神社に行きたいのですが・・・」
駅員さんは、橿原市の地図を持ってきて、一生懸命説明してくれた。
しかし平凡な住宅地の中なので、説明のしようがないようだったので、その地図を下さるという。
ありがたく地図を拝受して、駅を出た。
兎に角、歩いてみるしかない。
駅員さんは「この人 行けるかなぁ」と心配そうに私を見送ってくれた。
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が、駅を出て直ぐの道路にこの標識が!
門脇氏によると、入鹿神社は正蓮寺大日堂の中にひっそり隠れるように佇んでいると云う。
その正蓮寺大日の標識があったので、これは大丈夫だ!と確信。
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その時 閃いた!
スマホのグーグルマップにナビしてもらおうと。
スマホに向かって「入鹿神社」と命令し、ナビ開始。
スマホに誘導してもらい、その通りに歩いていたら
ナント!ナント!
入鹿神社の道標を発見!
いやぁ~ 入鹿神社と堂々と道標になっていることに感動した!
門脇氏の本の初版から41年
逆臣として 日本一の悪者とされた入鹿神社が、こうして堂々とその存在を世間にしらしめている。
感動した。
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憧れの入鹿神社へ②

2018.11.22.Thu.09:59
宿泊したホテルの無料朝食が、美味かったので、つい食べ過ぎてしまった。
少し頭がボーとして、とりあえずJR奈良駅から桜井行の電車に乗った。

プラットホームでは、山の辺の道を歩く老人のグループで賑わっていた。
古道歩きが毎週でもできるこのエリアの老人は幸せなのだ。


駅で何か困っている様子の人がいたので、どんなことでお困りなのか、近寄っていくと
出雲から1人できた女性が長谷寺と室生寺にゆくには、何処で乗り換えたらよいのか、と千葉から来た女性に訊いていたのだ。
千葉の人がJRと近鉄が両方載っている路線図を見せて、2人して確認し合っていた。
私の出る幕はないなと判断し、
電車が来たので私は2人の向かいの席に座ると
「こっちに来て、お話しましょ」と云われ 2人の隣に移った。
千葉から来た70代の人は、今日は談山神社に行くという。
出雲から来た60代の人は、京都と違って、アクセスが悪いことを嘆いていた。
確かに~
「で、あなたはどちらへ?」と2人に聞かれ
「入鹿神社です」と答えると
「えっーそういう神社があったの?」
「場所は何処?」
「でも蘇我氏って 悪い人だったんでしょ?」
「私も いつか 行ってみたいわ。場所教えて!」
と一気に盛り上がってしまった。

私も蘇我氏の歴史的復権をかけて、ついつい熱く語ってしまった。

桜井駅に着いてこの2人と別れた。
ほんの一瞬の でも 奈良の魅力にハマッている同志の楽しいひとときであった。

桜井で近鉄大阪線に乗り換え 大和八木で降りて、真西に600メートルとのこと。(旅後に分かったこと)
しかし、私は、大和八木からさらに近鉄橿原線に乗り換え、八木西口で降りてしまった。
少し遠回りしたようだ。



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憧れの入鹿神社へ①

2018.11.21.Wed.12:59
憧れの入鹿神社へ

いつか、いつか訪ねてみたいと思っていた憧れの入鹿神社
2014年の記事はこちらです。

久しぶりに奈良で2泊することになった。
なので、JR奈良駅の近くのホテルから 念願の入鹿神社を目指した。

実は私は、かなり重度の方向音痴。
辿り着けるかなぁ

しかし、このブログを始めた2014年の頃より 入鹿神社はかなりメジャーになって来たような気がする。

門脇貞二氏の「蘇我蝦夷・入鹿」の中に
~現地では、この一帯が「入鹿」(蘇我鞍作)の邸宅のあとと伝えている。
「日本書紀」に悪逆ぶりを記された入鹿であるのに、邸宅の伝承と神社が存しつづけたことは、それだけで無視しがたい気がする。
そういえば、石鳥居にもどこにも入鹿神社の社名を示す文字も標識も何一つないことが、かえって、後世になっても入鹿を祀り続けることへの憚りを思わせる~
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入鹿神社の標識も何もない、村人が隠して信仰しているような神社に よそ者の私が辿りつけるのだろうか?
2014年に ネット検索した時、「入鹿神社」では、ヒットはなかったと記憶している。

しかし、最近は違う。
入鹿神社へ行った人のブログなとが、ヒットするようになった。
かなり知名度が増し、メジャーになったのでは、ないだろうか?
学校で教えられた歴史に疑問を持ち、自分の頭で考え、資料を読み込んで、現地を訪ねる古代史ファンが増えたのは、実に喜ばしいことだ。

でも、実際 どんな風なのか、兎に角、この目で確かめよう。

本日は、一人で念願の入鹿神社にイザ出陣!





神武天皇陵とは何か④

2018.11.20.Tue.08:59
陵の所在地は平安時代ごろまでは知られていたようだが、その後分からなくなった。
江戸時代にいたって、徳川光圀の上申などにより、元禄年中に調査が行われ、古代の他の多くの天皇陵とともに、神武陵も改めて指定しなおされ修復が加えられた。
(この時、神武陵と指定されたのは四条村の福塚で現在の第2代綏靖天皇陵)
江戸時代中期以降、国学がさかんになり「古事記」がおもんぜられだすと、この時の指定に対する疑問がたかまってきた。
「古事記」には白檮の尾の上とあるのに、四条村の福塚のように畝傍山の山麓から五、六町も離れた平地にあるのでは、理屈あわない、というのである。
そこで重視されてくるのが、畝傍山の東北のふもとの大久保村ジブデン(神武田)にある塚と、これに隣接してさらに山よりにある洞村(ほらむら)の上方、畝傍山の中腹にある丸山と呼ばれる塚とである。
後者は本居宣長・蒲生君平・北浦定治らに支持されて有力であったが、川路精謨・谷森善臣らは強く前者をおし、結局これが文久3年(1863)に神武天皇陵にさだまった。
しかしもちろん、ここに神武天皇が葬られているというたしかな証拠はなにもない。
記録によると、塚というのは東西三間五尺・南北四間一尺(6.9m×7.5m)・高さ三尺五寸(1.06m)
ほどの、方形中高の土壇である。寺院の建物の基壇ではないかという説もある。

それはともかく、この小さな塚は文久3年に、費用一万五千余両をついやして、神武陵に姿をかえた。
明治以後、政府の手でさらに修復が加えられ、偉容をましたことはいうまでもない。
陵域も拡張され、明治初年には東西100メートル、南北200メートルであったが、現在の広さになった。天皇の尊厳をまもるために必要と考えられたのである。
直木孝次郎著 奈良 岩波新書より

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こちらへ

神武天皇陵とは何か③

2018.11.19.Mon.15:25
洞(ほら)部落フィールドワーク報告

 「貴族あれば賤族(せんぞく)あり」――生まれながらに“尊い”とされる天皇のような特権層がいることで、生まれながらに“卑しい”とされる人々が作り出されているのではないでしょうか。
 民主主義の社会であるはずの日本に厳然として残る差別と身分制度。私たちは「神武天皇陵」のために強制移転させられた洞(ほら)部落を訪ね、それを目の当たりにしてきました。

詳しくは こちらへ

神武天皇陵とは何か②

2018.11.19.Mon.14:49
☆彡京都教会月報より転写
①天皇制とは
 洞村跡の現地学習から
 前日の雨でぬかるんでいた畝傍山。靴の汚れやズボンのすそを気にしながらの洞村跡の見学となる。

 奈良県樫原市にある畝傍山は、高さ199メートルの丘を少し大きくしただけのような小さな山である。
 今からおよそ70年前、そこにあった洞村という被差別部落が、麓の神武天皇陵を見下ろしているのは、畏れ多いと強制的に移転させられた。

 我々は70年前に思いをはせながら登っていったが、今は、うっ蒼とした雑木林が続くだけ。わずかに共同井戸や庭木のしゅろが残っているだけだった。
 天皇制の強権によって、長年住みなれた村を追われていった当時の被差別部落の人々の思いは、一体どんなものであったのだろう。

 我々日本人の心に深く住みついている 天皇制とは という問いを新たに投げかけてくれた。(奈良 A・S)

 

②洞付強制移転が問いかけるもの  A・S

「洞付強制移転」については、ご存じの方も多いと思われますが、簡単に概要を紹介しておきます。
 今からおよそ80年くらい前、大正天皇が即位して、奈良県の橿原にある神武天皇陵を訪れることになりました。神武天皇陵とは日本の初代天皇の墓で皇室が最も大切にしている御陵です。現在の平成天皇も即位のために来ているし、皇太子夫妻も結婚の報告のために訪れました。そのときの「雅子さまフィーバー」は記憶に新しいところです。

 この神武天皇陵を見下ろす位置に、洞という被差別部落があったのです。畝傍山の中腹に208戸の家があり、1000人ぐらいの人々が生活を営んでいました。ところが大正天皇の行幸をさかいにいろいろと世論が湧き起ってきました。神聖な神武天皇陵を、穢れ多き被差別部落が見下ろしているのは、何んと畏れ多いことか。神山である畝傍山に、部落民の死体をそれも土葬で埋めている。恐催(きょうく=おそれおののくこと)に堪えざることである、などと。そして、ついに洞部落は国家権力の強制によって、長年住みなれた地を追われていったのです。これが「洞村強制移転」といわれるできごとです。

 このできごとは、部落差別と天皇制の問題を論じるときに、よく引き合いに出されるものです。しかし、このできごとをただ天皇制の強権力とか暴虐という面だけで捉えていると、天皇制のかかえているもっと恐ろしい部分が見えてこないと思います。
 洞村の子孫の人たちは、現在、大久保町という所に住んでいます。私は家庭訪問やいろいろな機会で、家に上がらせてもらうことが多いのですが、部屋に昭和天皇、皇后の写真が飾ってある家がかなりの数ありました。
 雅子さまが神武陵を訪れたときも、この町から数人の人たちが一目見ようと出かけて行っています。被差別部落の人たちも「雅子さまフィーバー」に一役買っていたのです。
 国民一人ひとりの心に住みついている天皇や皇族に対する意識は、過去にこんな目に合わされた被差別部落の人たちにとっても例外ではないようです。
 戦後になり天皇は、神ではなくて、象徴としての存在になりました。戦前のように天皇の強権や暴虐は見られなくなりましたが、今は、もっと複雑で巧妙にからめとられた天皇制が存在しています。そして、それは日本中の一草一木にいたるまで息づいているといえるでしょう。解放運動家の松本治一郎は『貴あれば賎あり』という有名な言葉を残しております。われわれ人間が天皇制という聖なるものを紡ぎ出している限り、部落差別をも紡ぎ出しているのだといえるでしょう


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