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「車持君」は渡来人

2018.02.16.Fri.08:43
嘘みたいな本当の歴史話㉟

皆さん、群馬県と言ったら何を連想しますか?自分は小さい頃、群馬と言えば大草原に何千頭もの馬が放牧されているそんなイメージでした。それとやはり「かかあ殿下と空っ風(群馬は女性と吹き降しの風が強いと言う意味)」、「国定忠治」ですね。小さい頃、オモニ(母)のスカーフをマントの様に首に巻いて、新聞紙をクルクルクルっと丸めた刀を作って、「赤城の山も今宵限り、かわいい子分の手前達とも・・・」なんて国定忠治を真似てチャンバラごっこした記憶があります。そんな話は置いといて・・・

さて、群馬の県名の由来は、古代この地域を「車評(くるまごおり)」と呼んでいた所に由来します。「評」とは「郡」と一緒で行政区分を表す言葉で、「車評」は後に「車郡」に代わり、この地名は江戸末期まで使われます。明治に入り、「車郡」が「群馬郡」となり、「群馬県」になったわけです。

では「車」とはなにか。それはここを治めていた「車持君(くるまもちのきみ)」と言う人物の名前が由来だと言われております。「車持君」は馬を多く献上したところからその姓を拝領したとあります。そう、「車」とは乗り物、つまり「馬」の事なんです。群馬県一帯の古墳からは多くの馬具や馬骨が出土しており、この地域で多くの馬が飼われていた事がわかっております。更にその馬は渡来人が朝鮮半島から持ってきて、この地で育て増やしたと言われております。一説には「車持君」は渡来人とも言われております。

それからもう一つ、この地には朝鮮半島からの渡来人が多く住み、「呉人(くれびと)が多く住む地」と言うことから「呉人」が「車」になったとの説もあります。「呉人」は朝鮮半島南部の「求礼(クレ)」、もしくは高句麗の「句麗」の事を言います。「車持君」説と「呉人」説、二つの説はかつて国語辞典にも載っておりましたが、県名の由来はどちらか「定かではない」そうです。ま、どちらにせよ、県名の由来は渡来人にまつわるって事ですね。

そうそう、高句麗と言えばこの群馬県にも、高句麗渡来人が来た証が幾つか残っております。代表的な物は高崎市箕郷町下芝にある「下芝谷ツ古墳(しもしばやつこふん)」です。この古墳、榛名山の火砕流で埋もれてしまいましたが、掘り起こしてみると巨大な石積み式の方墳(四角い古墳)でした。実は方墳は高句麗特有の古墳で石積式も高句麗式なんです。そしてここからは馬具類、甲冑、装飾品と言った豊富な副葬品が出土しました。中でも金銅製の「飾履(装飾を施した靴)」は大変珍しく、日本でまだ15例しか見つかっておりません。この靴は足の裏までガラスを埋め込み装飾されており、履いて歩くための物ではなく死者の為に履かせる靴で、古墳の被葬者が大変権力を持った者だと言う事がわかります。この他にも、高崎市にある高崎市立西部小学校隣の剣崎長瀞西遺跡からも方墳がいくつか見つかっており、群馬県には多くの高句麗系渡来人が入植した事がわかります。

いかがでしたか今日の「群馬県」のお話。
ちなみに我がアボジ(父)は生前、「我が家はかかあ殿下で、女房にあたまが上がらんばい。」って言ってました。古代も現代も、朝鮮半島から渡来した女性は強い・・・って事・・・
信じるも信じないもあなた次第です。
ではまた次回・・・


高崎市箕郷町下芝にある「下芝谷ツ古墳(しもしばやつこふん)」
榛名山の火砕流で埋まってしまい、上部が少し見えるだけになってしまいました。
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下芝谷ツ古墳(しもしばやつこふん)の地下を掘って、古墳の発掘調査をした写真です。
これだけ火砕流で埋もれてしまいました。
比較のための人の影が右上にあり、古墳の全景が右下にあります。
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古墳の案内板
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博物館の案内板
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古墳から出土した金銅製の「飾履(装飾を施した靴)」(レプリカ)
日本では15例しか出土しておりません。
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同じく反対側の金銅製の「飾履(装飾を施した靴)」
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金銅製の「飾履(装飾を施した靴)」(復元品)
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飾履の説明板
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高崎市にある高崎市立西部小学校隣の剣崎長瀞西遺跡。
目の前の古墳は剣崎長瀞西古墳。
手前の広場奥に、方墳が数基ありました。
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フェイスブックみんなの声
私    ・この飾履の美意識の高さには、感動ですね。どんな王だったのだろうと想像します。
金    ・自分も古代に思いが馳せります。
      騎馬民族の王様、想像するとワクワクしますね。(≧∀≦)
私    ・現代の私達より、精神的には、豊かだったでしょうね。

S     ・凄いですね〜(o_o)馬がたくさん飼われていて、馬関連の物がたくさん見つかっているという由来は聞いていましたが、        詳細は初めて知りました!(◎_◎;)靴はかなり高価な物のようですね(≧∇≦)
金    ・火山地帯なので農業には適さないけど放牧にはいい所だそうですよ。
       広大な牧草地だったそうです。
      靴は高価で権力と富の証。
      今の時代でいくらくらいするんでしょうかね?

H     ・金さんいつもながら興味深いお話、面白く拝読させて頂きました。
馬といえば、大阪と奈良県を分ける生駒山がありますが、古代は生駒山の裾野で馬を放牧し育てていたところから生駒山と呼ばれるようになったといいます。まだ大阪平野がない頃、生駒の裾野まで河内湖が迫っていました。裾野を走った馬たちは河内湖の水を飲んだと思います。生駒に近い寝屋川市には秦という地名がありますが、渡来人と関係があるかに聞いたことがあります。生駒山に近い、八尾市、東大阪市、大東市、四條畷市、交野市、枚方市の線は古代史に様々残るものがあります。王仁博士などはその一人です。
まだまだ、大阪の古代史まで至りません。近世で精一杯です。🤗👋


生駒の方は確か百済の渡来人達が馬を飼っていたと聞きました。
現在の大阪は、地名や歴史に百済の渡来人の痕跡が沢山ありますね。
寝屋川市の秦は新羅渡来人秦河勝由来の地名と聞いたことがあります。
確かお墓もありますね。
大阪は時代とともに、百済、新羅、高句麗と言った渡来人が沢山いたそうですよ。
百済は大阪でも古い土地で、百済駅もあり、街中です。
河内湖が生駒山近くまで迫り、裾野を馬たちが走る姿を想像すると、なんとも言えないロマンを感じますね🤗👋

H 四條畷市の歴史資料館には、生駒山の裾野から出土した、木棺に入った完全な遺体、馬の化石が保存されています。渡来人だったかもしれません。
私は何度も見ています

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甲冑王とかみつけの里

2018.02.09.Fri.14:12
嘘みたいな本当の歴史話㉝

皆さん、今から6年前、群馬県渋川市の榛名山(はるなさん)の麓で国道工事に伴う遺跡発掘調査が行われました。そこから大変珍しい古代人の人骨が出土した事はご存知でしょうか?何が珍しいかと言うと、前例のない日本で初めて鉄の甲冑をまとった人骨が出土したからです。では、この鉄の甲冑をまとった人物はいったい何者なのか?武人?貴族?はたまた農民?ここに大きな秘密が隠されておりました。今日はこの人物像のお話をしようと思います。

この人物は男性で、西暦500年代初頭に大噴火した榛名山の火砕流に巻き込まれて亡くなった事がわかりました。規模は長崎雲仙普賢岳で起きた火砕流の30倍とも言われております。では一体どんな人物だったんでしょう?その謎を解くカギがとある古墳にありました。

この遺跡から南に16km離れた所に、「上毛野はにわの里公園(かみつけのはにわのさとこうえん)」がありますが、その公園内に「保渡田八幡塚古墳(ほどたはちまんづかこふん)」と言う大型の前方後円墳があります。この古墳は既に盗掘されており被葬者の人骨はありませんでしたが、発掘調査を行った結果大量の埴輪が出土しました。その埴輪を復元してみると、生前の古墳の被葬者(王様)の生活の姿を現した物であった事がわかりました。

埴輪は狩猟をする王、神事をする王、隊列を組む王、鳥を方にのせた王他、様々な王の生活の場面を表したもので、その服装が極めて珍しく朝鮮半島の騎馬民族スタイルに酷似しており、諸説色々ありますがこの古墳の被葬者は朝鮮半島から来た騎馬民族の王様だった可能性が極めて高いと言う事がわかりました。そしてここには、甲冑をまとった埴輪もありました。関東付近で多く出土する甲冑をまとった武人の埴輪(NHKのはに丸くんや特撮映画の大魔神の様な埴輪)、元々王に仕えた武人と思われておりましたが、鎧が決まって出土するのは古墳の石室、つまり鎧をまとう者は武人ではなく王だと言う事が近年わかりました。つまり鎧をまとった埴輪も王だと言う事です。

では火砕流で亡くなった甲冑男性はと言いますと、古墳の王の埴輪と甲冑がきわめて似ており、男性はやはり武人ではなくこの付近を治めていた王と言う事がわかりました。そしてその後の科学的な調査の結果、この人骨は成人男性で年齢は40代前半、身長は164cmだと言う特徴がわかり、また歯の成分から長野付近で幼少期を過ごした人物、つまり長野県付近で生活経験があった事がわかりました。更に大腿骨が太かった事から馬に常時乗っていた事もわかり、結論からこの男性は、朝鮮半島渡来人で長野付近を経て群馬に移住してきた騎馬民族の王様だったと言う事が判明しました。

実は群馬県には古代、多くの渡来人がやってきて、その痕跡を現代にも多く残してくれております。

いかがでしたか、今日の人骨と埴輪のお話。
信じるも信じないもあなた次第です。
次回は、今話題の旬ネタで「日本、トランプ、相撲と群馬」のお話をしたいと思います。
ではまた次回・・・嘘みたいな本当の歴史話㉝

皆さん、今から6年前、群馬県渋川市の榛名山(はるなさん)の麓で国道工事に伴う遺跡発掘調査が行われました。そこから大変珍しい古代人の人骨が出土した事はご存知でしょうか?何が珍しいかと言うと、前例のない日本で初めて鉄の甲冑をまとった人骨が出土したからです。では、この鉄の甲冑をまとった人物はいったい何者なのか?武人?貴族?はたまた農民?ここに大きな秘密が隠されておりました。今日はこの人物像のお話をしようと思います。

この人物は男性で、西暦500年代初頭に大噴火した榛名山の火砕流に巻き込まれて亡くなった事がわかりました。規模は長崎雲仙普賢岳で起きた火砕流の30倍とも言われております。では一体どんな人物だったんでしょう?その謎を解くカギがとある古墳にありました。

この遺跡から南に16km離れた所に、「上毛野はにわの里公園(かみつけのはにわのさとこうえん)」がありますが、その公園内に「保渡田八幡塚古墳(ほどたはちまんづかこふん)」と言う大型の前方後円墳があります。この古墳は既に盗掘されており被葬者の人骨はありませんでしたが、発掘調査を行った結果大量の埴輪が出土しました。その埴輪を復元してみると、生前の古墳の被葬者(王様)の生活の姿を現した物であった事がわかりました。

埴輪は狩猟をする王、神事をする王、隊列を組む王、鳥を方にのせた王他、様々な王の生活の場面を表したもので、その服装が極めて珍しく朝鮮半島の騎馬民族スタイルに酷似しており、諸説色々ありますがこの古墳の被葬者は朝鮮半島から来た騎馬民族の王様だった可能性が極めて高いと言う事がわかりました。そしてここには、甲冑をまとった埴輪もありました。関東付近で多く出土する甲冑をまとった武人の埴輪(NHKのはに丸くんや特撮映画の大魔神の様な埴輪)、元々王に仕えた武人と思われておりましたが、鎧が決まって出土するのは古墳の石室、つまり鎧をまとう者は武人ではなく王だと言う事が近年わかりました。つまり鎧をまとった埴輪も王だと言う事です。

では火砕流で亡くなった甲冑男性はと言いますと、古墳の王の埴輪と甲冑がきわめて似ており、男性はやはり武人ではなくこの付近を治めていた王と言う事がわかりました。そしてその後の科学的な調査の結果、この人骨は成人男性で年齢は40代前半、身長は164cmだと言う特徴がわかり、また歯の成分から長野付近で幼少期を過ごした人物、つまり長野県付近で生活経験があった事がわかりました。更に大腿骨が太かった事から馬に常時乗っていた事もわかり、結論からこの男性は、朝鮮半島渡来人で長野付近を経て群馬に移住してきた騎馬民族の王様だったと言う事が判明しました。

実は群馬県には古代、多くの渡来人がやってきて、その痕跡を現代にも多く残してくれております。

いかがでしたか、今日の人骨と埴輪のお話。
信じるも信じないもあなた次第です。
次回は、今話題の旬ネタで「日本、トランプ、相撲と群馬」のお話をしたいと思います。
ではまた次回・・


鎧をまとった人骨。
日本で初めて出土した、大変珍しい人骨です。
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「上毛野はにわの公園」内にある「保渡田八幡塚古墳」
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古墳の被葬者である王の日常を表した埴輪
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鎧をまとった埴輪。
騎馬民族の王の埴輪。
出土した「鎧をまとった人骨」と酷似した姿です。
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着飾った騎馬民族の王の埴輪
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王冠をかぶった神事をする王のはにわ
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会議をする王の埴輪
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鳥を肩に載せた王のはにわ(左)
弓を射る王のはにわ(右)
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騎馬民族の証の馬と最後尾は鹿です。
馬具は朝鮮半島の物とそっくりです。
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神事をする王の様子
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これは王に使える武人。
鎧はまとっておらず、盾のみをもっています。
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今も続く鷹取焼宗家静山窯

2018.02.02.Fri.10:53
嘘みたいな本当の歴史話㉙

さて、前回の高取焼八山の続きをお話したいと思います。
内ヶ磯に移った八山ですが、悲しくも義父の韋登新九郎がほどなくしてこの世を去ってしまいます。そして開窯から10年後の1624年、八山の身にとある大事件が起きます。

朝鮮國は徳川幕府に対して、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の捕虜返還を求めてきました。この事を聞きつけた八山は藩主黒田忠之に帰国を願い出ますがそれは許されず、逆に怒りをかい内ヶ磯窯から追放処分となってしまいました。八山達は僻地に追いやられ、現在の福岡県嘉麻市(旧嘉穂町)、山田の唐人谷に移り住む様になり、何とか窯を開き細々と日用雑器を焼き売りながら生計を立てて行きました。この窯跡は山田窯跡と言われ、旧嘉穂町が炭鉱の町であったので、現在は石炭のボタ(屑の石炭)に埋もれてしまいましたが、そこには八山の功績をたたえ石碑と朝鮮半島式の記念碑が建っております。

さて、追放されて6年後の1630年、藩主からの許が出た八山は、現在の福岡県飯塚市幸袋に移り開窯します。その窯は白旗窯と呼び、八山と長男の八郎右衛門は徳川家の茶道師範、小堀遠州に指導を受けて「遠州高取焼(えんしゅうたかとりやき)」として、名が知られるようになります。しかし24年後の1654年、八山はこの地で亡くなってしまいました。その後長男の八郎右衛門も病死してしまい、日本で生まれた二男新九郎(しんくろう)が二代目八蔵を襲名して「八蔵貞明(はちぞうさだあき)」と改名します。

貞明は翌年1665年に小石原の鼓と言う谷に窯を移し、さらに数年後には福岡市内にも窯を開く事になり、代々その子孫が窯の火を守りますが、明治4年廃藩置県により遠州高取焼窯は廃窯となってしまいます。

しかしその後、十一代目に当たる女性の「静山(せいざん):本名静」さんが何とか窯を再興させたいと奮闘します。静山さんは反対を押し切り仕事を辞めて、一子相伝の高取焼秘文を参考に見事再興させますが、この時に事件が起きます。白旗窯跡近くに初代八山夫婦の韓国朝鮮式のお墓があったのですが、集合住宅建設のため取り壊されることが決まってしまったんです。静山さんはそれを阻止しようとしましたが、残念な事に取り壊されてしまいました。しかしお墓に埋葬されていた器が見つかり、何とかそれを持ち帰り1967年に小石原鼓の窯場裏に初代八山夫婦の墓を移しその器を埋葬しまた。白旗窯近くの墓跡には現在石碑が立ち、移したお墓は韓国朝鮮式で現在も窯と末裔のご家族を見守っております。

静山さんはその後も精力的に活動をして初代八山の母国である韓国との交流を持ったり、また1976年には初代八山の生地をたずねたり韓国で展示会も開催しました。そして韓国やアメリカから弟子を取り陶芸を教えたり、「炎は海を越えて」という書籍の執筆活動をしますが、そのさなか脳内出血で75年の生涯を閉じました。

高取焼の看板を上げている窯元は沢山ありますが、本来高取焼は一子相伝で本家本元は現在も鼓で窯の火を守る「鷹取焼宗家静山窯」の事だけを言います。数年前の北部九州大水害と今年の大水害でかなりの被害をうけましたが、いまもまだ十三代八山さんと奥様、そして息子さんとで製陶は続いております。

いかがでしたか今日の嘘みたいな本当の歴史話。
信じるも信じないもあなた次第です。
ではまた次回・・・

福岡県小石原鼓にある「高取焼宗家静山窯」
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高取焼宗家の登り窯
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初代八山の墓(左)とその妻志らとの墓(右)
韓国朝鮮式のお墓です。
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白旗窯跡近くに元々あった初代八山と志らとの墓跡です。
集合住宅建設のために取り壊されてしまい、後に石碑が建ちました。
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初代八山の墓跡の案内板
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初代八山の墓跡の石碑
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高取静山さん著「炎は海を越えて」
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福岡県の高取焼

2018.02.02.Fri.10:31
嘘みたいな本当の歴史話㉘

皆さん、江戸時代の茶人で、岡山の松山藩と後に滋賀県の小室藩の藩主であった「小堀遠州(こぼりえんしゅう)」と言う人物をご存知でしょうか?小堀遠州は千利休の孫弟子で徳川家の茶の師範としても有名な人物です。日本各地の焼物窯の中で遠州が大変影響を与えた7つの窯元を、「遠州七ツ窯(えんしゅうななつがま)」と言います。その内二つの窯元は朝鮮人陶工の窯元でどちらも福岡県にあります。一つは筑前福岡藩(黒田長政:黒田官兵衛の息子)の「高取焼(たかとりやき)」、そしてもう一つは豊前小倉藩(細川忠興:細川元首相の先祖)の「上野焼(あがのやき)」です。この両窯は藩が違いますが距離にして900mほどしか離れておりません。お互い藩境地で開窯したんですね。今日から何回かに渡って、福岡と熊本の陶磁器のお話をしたいと思います。今回はまず、高取焼のお話からしようと思います。

高取焼は朝鮮人陶工「八山(はちざん)」により開窯します。八山は朝鮮國で焼物を取り仕切る官僚だったと言われており、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時に慶尚南道井韋登村で黒田長政軍に捕えられ、妻と長男と共に日本に連れてこられました。妻の名は「志らと(しらと)」で朝鮮名不詳、長男の名前は「八郎右衛門(はちろうえもん)」でこちらも朝鮮名不詳です。これと同時に加藤清正軍により同じ場所で一人の朝鮮人陶工が捕えられ、熊本に連れてこられます。朝鮮名は不明ですが、名を「韋登新九郎(いとしんくろう)」と言います。実は韋登新九郎の聟(娘婿)が八山でした。韋登新九郎のお話は後日又改めていたします。

さて、黒田長政は現在の大分県中津市にある中津城城主でしたが、1600年に国替えで筑前福岡藩の藩主になります。それに伴い八山も現在の九州自動車道八幡インター近く、直方市の「鷹取山(たかとりやま)の麓、「永満寺宅間(えいまんじたくま)」で1606年頃に福岡藩御用窯(藩専用官窯)として高取焼を開窯します。宅間で開窯した後、名前を鷹取山にちなみ「鷹取八蔵茂貞(たかとりはちぞうしげさだ)」通称「八蔵」と改めます。鷹取性は後に高取性に変わりますが、これが日本での高取家の始まりです。

ここでは初期、朝鮮半島北部(現在のピョンヤン付近)の焼き物と同じ形式の焼き物が焼かれておりました。それは一説によると、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)以前に博多商人たちが朝鮮半島全域で密貿易を行っており、そこで仕入れた焼き物を諸大名や各藩主に献上したり売ったりしており、黒田長政もその一人で朝鮮半島北部の焼物を好んでいた様です。だから黒田長政は八山に朝鮮半島北部の焼物に似た物を焼かせていました。しかしながら八山は宅間窯を8年間で閉じてしまいます。それは黒田長政と細川忠興の仲が悪く、宅間窯が藩境地であったため移転を余儀なくされたからだそうです。

新たな移転先は宅間窯から5km程山奥の内ヶ磯と言う谷で、1614年に開窯しました。開窯に伴い八山は、義父の韋登新九郎を熊本から呼び寄せこの地に住まわせて、共に製陶作業をしました。この窯の規模は15室46mの巨大連房式登り窯で、国内最大級とされております。窯跡は現在、ダムの湖底に沈んでしまいましたが、ダムが不要になりまた窯の研究が出来る様にと、窯跡の上から保護材をかぶせて埋戻しております。

数年後、この内ヶ磯窯で大事件が起きますが、話が長くなるので次回への続きにいたします。
いかがでしたか、今日の嘘みたいな本当の話。
ではまた次回・・・

高取焼陶祖、朝鮮人陶工八山(鷹取八蔵茂貞)の肖像画
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高取焼発祥の地、永満寺宅間窯跡の石碑
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説明板
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内ヶ磯窯の記念碑
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高取焼内ヶ磯窯記念碑
内閣総理大臣麻生太郎
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内ヶ磯窯跡案内板
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案内板拡大➀
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案内板拡大②
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この内ヶ磯ダムの湖底に、高取焼内ヶ磯窯跡があります。
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