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渡来人のもたらした製紙技術

2018.01.26.Fri.08:58
嘘みたいな本当の歴史話㉗

皆さん、突然ですが紙の歴史をご存知でしょうか?古代江ジブト地方でパピルス草と言う植物の繊維編んで作ったシートに、文字を書き始めたのが紙の始まりだと言われております。でもこのパピルス、正確には織物なんですが現在の「ペーパー」の語源にもなり、ここから製紙技術が発展して行った事は間違いありません。その製紙技術は東に伝わり、高句麗で大発展を遂げる様になります。古代中東地方では高句麗の製紙技術が流行りました。それは高句麗と唐の連合軍が中東を攻めた時に敗北して捕虜となった高句麗兵の中に、紙漉きの技術者がおりそこから伝わり、西洋まで広まって行ったとも言われております。

では、日本での歴史はと言うと、初めて製紙技術を伝えたのは高句麗の僧侶「曇徴(どんちょう)」です。何故僧侶が製紙技術を有していたのかと言いますと、それは仏教の教えを広めるため経典等を書き写すのに紙が必要だったからです。更に曇徴は墨、水力を利用した臼も伝えたとされており、絵画の絵具等も伝えたとされております。現在舞台などで客席と舞台を仕切る豪華な刺繍や絵画を施した幕の事を「緞帳(どんちょう)」と言いますが、その語源は「曇徴(どんちょう)」に由来します。この他にも東京浅草、浅草寺の大提灯に使用されている福井の越前和紙、すでに絶えてしまった九州北部の製紙技術は、朝鮮半島の渡来人が伝えたとされております。

さて、日本の製紙の歴史本や論文等を読むと度々登場するのが、熊本の紙漉職人の兄弟です。兄の名を慶春(けいしゅん)、弟の名を道慶(どうけい)と言い、出身は朝鮮國で壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時に加藤清正軍に捕らわれ捕虜として連れてこられました。

この二人は他の9人の紙漉職人と共に熊本に連れてこられ、飽託郡亀井村(現熊本市八景水谷)で紙漉きをはじめます。その数年後、3か所に分けられ「御紙漉役(おんかみすきやく)」を賜り肥後藩の紙を漉く事になります。数名の製紙工は現在の九州自動車道菊水インター近くの日平と言う谷に、弟の道慶はそこからひと山越えた玉名郡木葉村の浦田谷に移住させられ、紙漉きを行いました。後にこの谷を道慶谷と呼ぶようになりますが、現在は浦田と言う地名になっております。この谷には現在も道慶の墓所があります。

兄の慶春は道慶谷から30kmほど離れた福岡県との県境付近、鹿本郡廣見村の川原谷(現山鹿市鹿北町芋生)に移住させられます。この村の入り口付近をかつては「慶春待ち」と呼びました。それはさびれた村が慶春が来る事により紙漉きの産業で潤うであろうとの期待で、村人は総出で慶春を出迎えたそうです。その出迎えた場所をいつしか「慶春待ち」と呼ぶ様になり石碑までたちました。

現在「慶春待ち」は老人クラブの手により、畳十畳ほどの「慶春公園」に整備され、慶春待ちの碑に加え、慶春の墓石、川への転落事故で亡くなった慶春の息子の墓石、慶春の子孫の墓石を移転させてきて、4つの石碑が立っております。またこの地では何年か前まで「慶春祭」と言うお祭りまで開催されておりましたが、現在は行われておりません。

さて、山鹿市では毎年夏になると全国ニュースに取り上げられる「山鹿灯篭祭り」が開催されます。和紙作りの灯篭を頭の上にのせ優雅に舞い神社に奉納するお祭りです。またこの付近では和紙で作った団扇と和傘が伝統工芸としてあります。これらは慶春の漉いた和紙とその技術が大いに貢献して発展したと言い伝わっており実際に記録も残っております。

いかがでしたか今日の紙の歴史と熊本の紙の歴史話。
信じるも信じないも、あなた次第です。
では、また次回・・・

山鹿市にある慶春公園の石碑
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慶春待ちの碑
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慶春の碑
これは移転させた慶春の墓石です。
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道勤の墓
慶春の息子で川へ転落死したと伝わっております。
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葍春の碑
慶春の子孫の墓石です。
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慶春公園の案内碑
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慶春待ちにある慶春公園の全景
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熊本県の人吉市に残る朝鮮人の歴史

2018.01.25.Thu.15:24
嘘みたいな本当の歴史話㉛

皆さん、熊本県南部の人吉市をご存知でしょうか?近年は蒸気機関車が走り鉄道ファンには有名で、その他球磨焼酎(くまじょうちゅう)と言う米焼酎でも有名な街です。今日はこの、人吉市のお話をしたいと思います。

人吉は鎌倉時代から「相良一族(さがらいちぞく)」が代々地頭を務め、江戸初期には肥後人吉藩が立藩、初代藩主は「相良頼房(さがらよりふさ)」でした。頼房は人吉城を築城しますがこの城址脇には球磨川(くまがわ)が流れており、その対岸には七日町(なのかまち)と言う小さな町があります。この七日町は元々「唐人町(とうじんまち)」と呼ばれておりました。頼房は壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時に、加藤清正軍の二番隊として800人の兵で参戦し、その時に捕虜として人吉に連れて来た朝鮮人数十名を住まわせた町が唐人町と呼ばれる様になりました。

朝鮮人捕虜は技術者が多く中には陶工もおりました。この朝鮮人陶工は人吉の上村に移住させられ頼房の命により開窯をして茶器を焼成したと言う記録があります。これを「上村焼(うえむらやき:別名相良焼物)」と言いましたが、明治時代に西南戦争のあおりを受け戦火にさらされ途絶えてしまいました。

さて、この朝鮮人捕虜技術者の中には焼酎の蒸留技術を持った者もおりました。その技術者達が人吉地方の球磨焼酎発展に大きく貢献したそうです。

一般的に球磨焼酎の由来は4つの説からなりますがはっきりしていないそうです。
一つは琉球から技術が伝わり泡盛の技術を応用した説、二つ目はポルトガルから技術が伝わりウィスキーの技術を応用した説、三つ目は朝鮮半島渡来人が伝えた説、四つ目は壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の朝鮮人捕虜が伝えた説ですが、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時には既に家庭の小さな規模で焼酎は作られておりました。おそらく焼酎の増産技術、つまり米焼酎の産業発展に大きく貢献したのが朝鮮人捕虜の技術者だったと言われております。しかし、当時の米はお金と一緒だったので藩の管理が厳しく、一般人が米を使って焼酎を家庭で作ったのかという疑問も捨てきれません。長崎発祥の麦焼酎技術は朝鮮半島の高麗渡来人が伝えたと言う説が一般的なので、球磨焼酎の渡来人説も捨てきれませんね。ま、球磨焼酎の由来はさておき、人吉で米焼酎の産業発展に大きく貢献したのは、朝鮮人捕虜の技術者だったと言う事は間違いないようです。

さて、人吉城址の西側には「永国寺(えいこくじ)」と言う曹洞宗の寺院があります。このお寺の楼門をくぐり参道を進んだ右側に、木に寄り添うように立っている一つの石碑があります。この石碑は「千人塚石塔(せんにんづかせきとう)」、通称は耳塚と呼ばれております。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時、豊臣秀吉は戦果報告の証として朝鮮人の首や耳、鼻を本国に送る様に命じます。各大名は戦果報告のためにこぞって首を斬り耳や鼻を削いで塩漬けにして本国に送りました。それらを埋葬したのが今の京都豊国神社前にある耳塚です。頼房もその時に1800余人の朝鮮人の耳や鼻を豊臣秀吉に進上したそうです。頼房は帰国後1800余人の朝鮮人の霊を供養するため、永国寺前にある千人塚に供養塔としての石塔を建てました。それが「千人塚石塔(せんにんづかせきとう)」であり、現在は永国寺境内に移転して立っております。熊本県の人吉市にも、こうやって朝鮮人の歴史が色々と残っております。

いかがでしたか、今日の嘘みたいな本当の歴史話。
信じるも信じないもあなた次第です。
ではまた次回・・・

熊本県人吉市にある人吉城址。
手前の川は球磨川です。
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人吉市七日町。
かつては朝鮮人捕虜が住んだ唐人町でした。
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上村焼が焼かれた上村地区の古地図。
左端に「壺や」とあるのが朝鮮人陶工が焼いた上村焼の名残です。
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人吉地方の名産「球磨焼酎白岳(くまじょうちゅうはくたけ)」の蔵元
ここには球磨焼酎の歴史がわかるミュージアムがあります。
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人吉城址西側にある永国寺楼門
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千人塚石塔、通称「耳塚」
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千人塚石塔の案内板
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神田明神

2018.01.25.Thu.08:47

言葉の語源 その116

皆さん、東京の「神田明神」はご存知ですよね。祭神は「大己貴命(おおなむちのみこと)」、「少彦名命(すくなひこなのみこと)」、「平将門命(たいらのまさかどのみこと)」の三柱です。正式社名は「神田神社」ですがこれはは明治政府が改名した社名で、元々は「神田明神」なんです。さて、この神社は江戸最古の神社と言われておりますが、それは神田明神の事ではなく境内にある摂社「江戸神社」の事なんです。

元々江戸神社は現在の東京駅大手町北口近くにある読売新聞社脇の「将門塚(しょうもんづか)」の上にありました。将門塚とは、「平将門(たいらのまさかど)」が朝廷にたてつき京の都で討たれた首が江戸まで飛んできて落ちた場所と言われておりますが、これは全くの迷信話。実は古墳だったそうです。

江戸神社は元々江戸氏(えどうじ)と言う氏族が創建しました。そして関東一帯を治めたのも江戸氏でした。そう、江戸とは地名で無く語源は氏族の姓だったんですね。この江戸氏は秩父氏の末裔で、秩父氏はその名の通り埼玉県の秩父地方を治めていた秩父神社を創建した氏族です。秩父氏は以前お話ししましたが、新羅系渡来氏族なんです。つまり江戸のルーツは新羅系渡来氏族なんですね。

さて、江戸神社は西暦702年に創建されましたが、その後西暦730年に神田明神社併設される事になります。元々は江戸神社の方が各上でしたが、徳川家康が関ヶ原の戦いの前に戦勝祈願をしたところ勝利した事がきっかけで、神田明神が各上になり、江戸神社は格下げにあいます。当然江戸神社は納得しませんでした。しかしお祭りだけは江戸神社の方が各上で数日にわたり盛大に行われ、神田明神際はたった一日だけで誰も騒いではいけない静かなお祭りだったそうです。

格下げされた江戸神社の不服は江戸時代の間ずっとくすぶっており、諸説色々ありますが江戸氏の祖先平将門を神田明神の祭神として祀る事に成功します。神田明神は元々「大己貴命(おおなむちのみこと)」だけでしたが、この時から平将門を加えた二柱の祭神となります。しかし明治に入り明治政府が、天皇にたてついた平将門を祀る事に難色を示し、「少彦名命(すくなびこなのみこと)」を第二の神様に祭り、平将門を格下げしてしまいます。それだけではなく江戸神社の扱いも格下げされ末社扱いになり、江戸神社の祭神も「牛頭天王(素戔嗚尊の仏教名)」でしたが、天王と言う名が天皇に失礼だとして「素戔嗚尊」に変えられてしまいます。この様にして現在に至ったっております。

さて、神田明神は出雲氏が創建した神社で「大己貴命(おおなむちのみこと)」を祀りますが、この大己貴命は少彦名命と二柱で「韓神(からかみ)」といわれ、宮内省に祀られていた神様なんです。「韓」は韓国の「韓」ではなく、古代朝鮮半島南部にあった古代国「三韓(馬韓、辰韓、弁韓)」の事を言います。そして大己貴命は現在の七福神「大黒様」でもあります。さらにさらに、出雲氏は島根県の出雲地方を治めていた氏族で、新羅渡来氏族なんです。

こうやって見ると、江戸氏も秩父氏も出雲氏も新羅渡来人、さらに祭神「大己貴命(おおなむちのみこと)」、「少彦名命(すくなひこなのみこと)」は三韓(後の新羅)の神様、「平将門命(たいらのまさかどのみこと)」も新羅渡来氏族のご先祖様、「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」は新羅渡来神、当然江戸神社も神田明神も新羅渡来人創建の神社、みんな新羅に繋がるんですね。

いかがでしたか今日の神田明神の語源話。
信じるも信じないもあなた次第です。

神田明神拝殿
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神田明神扁額
正式名称「神田神社」ですが、元々神田明神でした。
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神田明神由来書
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神田明神の大黒様
大黒様は別名「大己貴命(おおなむちのみこと)」で、神田明神の祭神です。
韓神と呼ばれ、宮内省に祀られていた朝鮮半島古代国の三韓(馬韓、辰韓、弁韓)の渡来神です。
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江戸最古の江戸神社
神田明神境内にあります。
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江戸神社の扁額
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江戸神社の由来書
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秩父神社

2018.01.23.Tue.14:18
言葉の語源 その85

皆さん、最近関東の方では秩父パワースポットブームと伺いました。秩父は埼玉県の北部山中にあり、昔は武蔵国(埼玉県、東京都、神奈川の一部)に属し秩父郡と言われておりました。今日はこの、秩父のお話をいたします。

さて、秩父の中心部に「秩父神社(ちちぶじんじゃ)」が鎮座しております。ここには「八意思兼命(やごごろおもいかねのみこと)」、「知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)」、「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」、「秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)」の4柱の神様が祀られておりますが、古い文献によると、元々「八意思兼命」だけでした。「八意(やごころ)」は「沢山の技術や知識」を意味し、「思兼(おもかね)」は「沢山の思慮を兼ね備えた」と言う意味と「重い金」つまり「金属」の意味で、「沢山の知識と技術を兼ね備えた神様」と「製鉄の神様」の両方の意味を持っております。

実はこの神様、高句麗渡来神「高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)」の子で、新羅の渡来神だと言われており、知知夫彦命の父、祖父、先祖とも言われております。何故父、祖父、先祖と言う表現かと言いますと、知知夫彦命と言う名前は、何代かの間親から子へ、子から孫へ受け継がれ、数百年間続いた名前だからだそうです。つまり、高皇産霊尊 → 八意思兼命 → 知知夫彦命 → 知知夫彦命 → 知知夫彦命・・・と言う家系図になるんですね。

ここ秩父は知知夫彦命が治めたから「秩父」となったんですが、元々は「栲衾新羅国(たくぶすましらくに)」と呼ばれておりました。栲衾(たくぶすま)は、木の皮の繊維で織った綿布や白布を意味する言葉で、この秩父は織物の技術を持った新羅渡来人が開拓した地なんです。また「知知夫彦命」はもともと、「千千布」と書き「沢山の布」を意味し、これは「八幡(やはた:沢山の幡)」と同じ意味で、新羅渡来人が信仰していた「八幡神」ではないかとも言われております。つまり、知知夫彦命は新羅渡来人なんですね。

そうそうこの秩父神社、ご神体が正面の「武甲山(ぶこうさん)」なんですが、この山も元々、「知知夫ヶ嶽(ちちぶがだけ)」と呼ばれ、渡来人の山岳信仰の山だったようですが、旧秩父セメントの石灰採掘で400mも削られてしまいました。福岡県の香春神社と共通する所がありますね。

さて、この秩父の新羅渡来人は織物だけではなく、製鉄にも長けていた集団でした。秩父北部には「聖神社(ひじりじんじゃ)」が鎮座しております。ここは銭神様と呼ばれ、日本初の銭貨である「和同開珎(わどうかいほう)」発祥の地と言われております。それ以前の日本の銭貨は流通性があまりなく、中国からの輸入に頼っておりました。実はこれには新羅渡来人が大きく関わっており、渡来人達が銅山を発見して和銅の大量生産を成功させ、日本独自の銭貨生産にこぎつけ流通性をきたす事が出来る様になったんです。これは日本にとって、歴史を大きく塗り変えた出来事で、年号(平成、昭和とか)が「和銅」と言う年号に変わるほどの出来事でした。ちなみに和銅元年は西暦708年です。この銅の産出に大きく貢献した新羅渡来人が記録に残っております。名前は「金上无(こんじょうむ)」ともう一人、「多胡羊太夫(たごひつじだゆう)」です。多胡羊太夫はこの事がきっかけで、多胡郡を治める郡司の地位をもらい、金上无は品5位と言う高待遇の扱いになりました。現在秩父地方に、「金」が付く地名が多く見られますが、それはこの金上无が由来だとされております。

技術と知恵を持った製鉄の新羅渡来神「八意思兼命(やごごろおもいかねのみこと)」、そしてその息子であり代々名前が継がれて行った「知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)」、そして織物と和銅生産の技術を兼ね備えた新羅渡来人、秩父神社と聖神社。今日のお話おわかりになられましたでしょうか?ちなみにこの秩父地方、もののけ姫でおなじみの「ダイダラボッチ伝説」が数多くあり、渡来人と製鉄との関係を物語っている証ですね。

まだまだ埼玉のお話は続きます。
ではまた次回・・・

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