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奈多八幡宮

2017.08.25.Fri.09:11
☆金浩さんのフェイスブックよりシェアしました。

嘘みたいな本当の歴史話㉒ + 言葉の語源 その114

皆さん、大分空港滑走路を望む大分県杵築市(おおいたけんきつきし)の奈多海水浴場のほぼ中央に、「奈多八幡宮(なだはちまんぐう)」が鎮座しております。
この神社、「奈多宮(なたぐう)」とか「八幡奈多宮(はちまんなたぐう)」とも呼ばれており、大分県宇佐市にある新羅渡来人が創建した全国総八幡宮の本社「宇佐神宮」の別宮として創建されましたが、伝承では奈多海水浴場沖合300mの岩礁が元宮とあり、岩礁に比売神が降臨して現在の場所に遷ったとされております。

宇佐八幡宮では「放生会(ほうじょうえ)」、「行幸会(ぎょうこうえ)」と呼ばれる二つの神事が執り行われます。後者の行幸会は宇佐八幡宮のみで6年に1度執り行われる古代からの神事です。昔は福岡県田川郡の新羅神を祀った「香春神社(かわらじんじゃ)」で採銅された銅で鏡を作り、それを神輿に納め、大分県中津市の新羅渡来人が創建した「薦神社(こもじんじゃ)」に立ち寄り、神社境内にある池の真菰で「薦枕」を作り一緒に神輿に納め、関連神社をまわり宇佐神宮上宮に新しい御神像と共におさめたそうです。ちなみに現在は香春神社とのつながりは絶たれております。

さて、新しく御神体、御神像、薦枕が宇佐神社上宮に納められると、元々あったご古い御神体、御神像、薦枕は宇佐神社下宮に移され、宇佐神社下宮にあった古い御神体、御神像、薦枕は、奈多八幡宮に納められるそうです。さらに奈多八幡宮にあった古いご神体、御神像、薦枕は、目の前の海に流されるそうです。これだけ見ても宇佐八幡宮と奈多八幡宮の密接な関係がわかりますね。

つまり、奈多八幡宮も新羅渡来人が創建した神社なんです。それを物語る様に、この神社の目の前奈多海水浴場は現在、人工の白砂がまかれておりますが、元々上質の砂鉄が取れた浜で、この一帯には古代製鉄、製銅所跡が沢山出土しております。そう、ここの鉄や銅の技術も渡来人がもたらした技術なんです。

さて、この奈多八幡宮境内奥には、一体の像が「みかんの祖」として祀られております。その人物は「田道間守(たじまもり)」で、現在はお菓子の神様として福岡の太宰府天満宮はじめいろんな神社に祀られております。この「田道間守」は日本書紀や古事記といった日本の古い古文書に登場する人物で、果物、特に柑橘類の蜜柑を日本全国に植えて回った人物として記録に残っており、それがいつしか甘味の神様つまりお菓子の神様として祀られるようになりました。皆さんご存知の柑橘類の「橘(たちばな)」は「田道間花(たじまばな)」が転訛したとされており、関西の地名「丹波」は元々「但馬」でこの「田道間」が語源とされております。

さて、この「田道間守」は実は渡来人の子孫、もしくは渡来人とされております。それはこの「田道間守」が新羅渡来人の「天日矛(あめのひぼこ)」の末裔、もしくは孫と記録が残っているからです。「天日矛」は太陽を神として信仰する新羅の製鉄シャーマン集団とも言われており、西日本と九州に沢山の伝承を残しております。

ちなみに「蜜柑」の語源は「三韓」で、韓国南部にあった古代国「馬韓國」「辰韓國」「弁韓國」の「三つの韓国」から来ていると昔歴史家に聞いた事がありますが、その資料の記述を見つける事が出来なかったので、この「蜜柑の語源」は自分の私的見解としての発言と理解してください。

いかがでしたか今日の嘘みたいな本当の歴史話と語源話のコラボ。
信じるも信じないもあなた次第。
では、また次回・・・

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奈多八幡宮拝殿
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奈多海水浴場
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奈多八幡宮の元宮
奈多海水浴場沖合300mの岩礁に、比売神が降臨したとの伝承があります。
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奈多八幡宮鳥居
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奈多八幡宮由来書
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奈多八幡宮鳥居の扁額
八幡奈多宮とあります。
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奈多八幡宮由来書
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田道間守像の全景
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田道間守の像
ここでは「みかんの祖」として祀られていますが、お菓子の神様として全国で祀られています。


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沖ノ島

2017.08.25.Fri.08:46
金浩

嘘みたいな本当の歴史話㉑
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福岡県宗像市の沖にある、沖ノ島。
昨日、世界文化遺産「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」に登録されることが決まりました。
この沖ノ島は女人禁制の神宿る島で宗像大社の神領地、つまり宗像大社所有の島であります。
一般人の上陸は年に一度の抽選で200人のみで、当選した人は上陸前に一糸まとわぬ姿で、この島の港の海水で身を清めなければなりません。
撮影は禁止、石ころ一つ持ち出し禁止、残して良いのは足跡だけ。

さて、この島からは新羅の宝物が色々見つかっております。
有名なのが、慶州付近の古墳から出土した金の指輪とそっくりな指輪が、この島で見つかっております。
古代、渡来人達の航海の要所でもあった沖ノ島。
渡来人は朝鮮半島を出港してこの島を目指してその後日本に上陸した物と思われます。

関連遺産として申請していた渡来人の古墳群、「新原・奴山古墳群」は一時除外対象となりましたが、最終的に含まれる事となり大いに歓迎する結果となりました。
詳しくはこちらへ

車持神社周辺

2017.08.17.Thu.09:24
☆柳生さんのフェイスブックよりシェアしました。
※26枚写真があるので、後日upします。
8月11日 21:52 ·
2017年8月11日(金) まだ迎え盆前だし…仏教じゃないしな。
【グンマのルーツは「車」にあった】
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▼盆休み直前に西国の信頼するお方から「預言書」をいただいた。
グンマの光彦は古代史がよくわからない。
が、群馬に何の縁もないお方が詳細に書き留められたメモなのでおろそかにできない。ひとまずそのコアな部分にかかわる神社などを実地に歩いてみることにした。

▼藤原京(694~710年)の時代の資料によると、現在の群馬県の中に「車評(くるまのこおり)」(「評」は大宝律令によって「郡」となる)と呼ばれていた地域があったとされる。

▼奈良時代に入るとすぐ、和銅6年(713年)の諸国の風土記編集の勅令により、「国・郡・郷名はその土地にあった漢字二文字で表すこと」とされ、国名「上毛野国(かみつけのくに)」は「上野国(こうずけのくに)」に、郡名「車(くるま)郡」は「群馬(くるま)郡」に改められた。

▼『和名類聚抄』は「久留末(くるま)」と訓んでおり、藤原宮木簡でも、「車評(くるまおこほり)」である。現在も高崎市高浜町に久留馬小学校の校名が残る。
そして、昭和時代まで群馬郡には久留馬村(高崎市に合併前の榛名町東部)・車郷村(くるまさとむら)(高崎市に合併前の箕郷町西部)が存在していた。「クルマ」が本来の名だったのだ。
私の柳生の家は昭和前期まで 「車郷村」であり、その後行政合併で箕郷町から高崎市へと編入された。

▼群馬県の県名が初めて使われるようになったのは、第1次群馬県が成立した明治4年。これは、廃藩置県を受けて、高崎・前橋の大部分を含み大郡であった群馬郡を県名とすることがふさわしいと判断されたことによる。(群馬県の公式見解)
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①車持神社(高崎市十文字町289番地)
▼『上野国神名帳』に「従五位上 車持大明神」とある神社。
車持の社号は、車持公を祀るため。雄略天皇の頃、乗輿を作り献上したことにより、「車持」の姓を賜ったという車持氏は、上毛野君豊城入彦命(かみつけのくにのとよきいりひこのみこと)の後裔である射狭君の末裔で、榛名山東麓一帯を統治していたという古代の豪族だそうだ。
ちなみに、『竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人に車持皇子がいる。母が車持氏出身の皇子=藤原不比等がモデルとされる。
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②群馬の松(高崎市箕郷町上善地)
▼「車川」を渡り上善地駒寄地区に向かう。雨の後で榛名山から大量の水が流れ下っている。
榛名山へ上る県道沿いに路側余地がある。そこから土佐に多い「沈下橋」で車川を渡河して右へ100mほど歩いた奥まった場所にある。
「霊木 群馬の松」は現在は7代目の若木が継いであるが、そもそもは第2代目は樹齢800年余り、3代目は樹齢250年余りの双幹の大樹だったという。
明治39年にこの松をめぐって、十文字地区と駒寄善地地区で境界争いが発生した。
同41年、松の古木は静かに倒木した。霊木が身をもって「和の心を訴え、自らの生命を終えた」姿に村人たちは学ぶところがあり、平成13年にいたって正式に両地区は和解したそうだ。
…すいません。説明書きを読んでも趣旨が良く分からないので、そのように解釈しました。
マムシも熊も出そうなので早々に引き上げた。
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③駒寄神社(高崎市箕郷町上善地駒寄地区)

▼群馬の松から数百メートル榛名山方向へ県道を上った反対側にある。
入り口に路側余地があるのが目印だが、ここは何度か迷った。鳥居が奥まっていて目立たないのだ。駒寄集会所の駐車場(普段は進入止めされている)わきに鳥居が建っている。
「治尾の牧」(官牧)が上中下の善地一帯にあって、車持氏の後裔・勘解由が管理したことと関係がありそうだが、詳細は書いてなかった。
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④月波神社(高崎市箕郷町善地1641番地)

▼車持氏の子孫は「風の三郎」を名乗り、善地の地に住んだ。
勘解由として、屋敷を善地入田に構えた。 勘解由とは、国司が交代するときに、安全を管理する役目である。
延暦年間、征夷大将軍坂上田村麻呂に従った三郎は、上野勢の総帥として活躍し、戦功により、「善知」の姓を賜った。やがて「善地」という地名となったという。
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⑤榛名若神子神社(高崎市箕郷町松之沢371-1)

▼榛名山へ上る県道154号線の「ローランド ゴルフ倶楽部」のやや下の道端にひっそり佇んでいる。
鳥居の右側には大きな杉が二本あり目を引く。拝殿前に切り株で作った賽銭箱が置かれていて珍しい。
榛名山信仰に関連しているようだが、説明書きもなく、手元に箕郷町誌もないので詳細は分らない。
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若はんにゅ

▼5時を回って天気も悪く、山の中腹は薄暗くなってきた。
「預言書」には高崎一帯のたくさんの地名や史跡の名称が書き込まれている。
また後日、アプローチを変えて歩いてみたい。    (終)