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車持神社を探して④

2017.01.31.Tue.15:19
この神社のイワレが石碑にあった。

由来
創立年月日は詳らかではないが、上野国神名帳所收の従五位「車持若御子明神」は現在の車持神社である。当社は、車持公の遺徳を追慕し、縁の地に崇祀勧請したものと伝えられている。車持公は上毛野君豊城入彦命の後裔射侠君の末裔で榛名山東麓一帯を統治されていたことから、この地は車の里と呼ばれていたのである。雄略天皇の時乗輿を作り献上したことにより、車持の姓を賜り、以後子孫はこの地に居住し、善政を施したのでやがて地名にまでなったという。また、榛名神社には豊城入彦命を祀る国祖殿があり、神南備の山の榛名神社大神を合祀したものである。
祭神:火産霊命、波途夜麻混売命、車持公
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谷下に何かありそう。

sしたのみず01
ちょっと怖いけど 降りてみた。
sしたのみず02
石造物が鎮座していた。
sしたのみず03

実はこの日 神社の隣の牛舎の牛が一頭市場に売られていった。
まさにドナドナドナの世界・・・・

飼い主は無言のまま牛を撫でて別れを惜しんでいた・・・・
牛の瞳があどけなくて・・・・

闖入者は見ないふりをしているしかなかった。
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車持神社の隣の牛舎
古代から活火山の麓の傾斜地は田畑には適さないので放牧が盛んであったそうだ。

そんなこの土地に刻まれたDNAにも感動した。
榛名山東麓に眠る古代の車持勢力の痕跡をもっと知りたい・・・・
 
観光で行く榛名とはまるで違う、古代の歴史を秘めたこの里に魅せられつつある。

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車持神社を探して③

2017.01.31.Tue.15:18

やたらクネクネした道路を道なりに走り続け十文字集落に入り右折した。
sくるま001
そこに十文字公民館があった。
ここに車を駐めた。
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この公民館の右手に憧れの車持神社は鎮座ましましていた。
この付近の集落の人か、古代史好きでなければ、
なかなか辿り着けない場所に鎮座していた。
しかし、このような場所だからこそ
この神社は奇跡的に残ったのであろう。
sついにくるまへ05
sついにくるまへ07
神社の南側は深い谷 北川は牛舎になっていた。
そして、この後思わぬ展開に・・・
sついにくるまへ06

車持神社を探して②

2017.01.31.Tue.14:57
二度目の挑戦は、次の日曜日だった。
早めのランチをつくり家族解散。
今回はスマホのグークルマップという文明の利器を使い車持神社を目指した。
(義兄に教えてもらったら超便利!)
今回は長谷寺からではなく
県道29号線の「下村」を信号で右折してクネクネした154号線をひたすら上っていくことにした。

榛名に実家がある友人に
「長年寺がいいから、是非行ってみて」
といわれて立ち寄った。
その友人に「車持神社知ってる?」と恐る恐る聞いてみたら
「知らない そんなとこ」と言われた。
ガッカリ・・・・

友人イチオシの長年寺にて
sくるまもち06
この辺りはまだまだだが、この先はクネクネした道路
長谷寺周辺よりもっと500年くらいタイムスリップした感じになる
観光で行く榛名とは イメージが全然違う。
s行く道01
突然、神さびた古社発見
抜鉾大明神(ぬきほこだいみょうじん)
ヤマトタケルだかトヨキイリヒコだが・・・の東征を肌で感じた瞬間
今までの長閑な榛名山のシメージが吹っ飛んだ。
s車持ち03
階段を上がって抜鉾大明神の社
s車持ち04

車持神社を探して①

2017.01.31.Tue.14:51
☆念願の「車持神社」へ

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「群馬史再発見」の中の熊倉浩靖氏の
「上毛野国(かみつけのくに)から東国(あづまのくに)へ」
を読んでいたら、どうしても
「イザ!ユカネバナラヌ」神社を発見!

車持神社!

なぜ、車持神社がそんなに凄いのかというと・・・
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そもそも「群馬県」のグンマとは・・
雄大な関東平野に馬が群れているイメージから「群馬県」となったのか・・・・
と思っていた。
しかし、そうではなかった!!。
榛名山東麓を車持君(くるまもちのきみ)という先進技術を持った氏族集団が支配していた。
その車持→クルマ→グンマ→群馬となったのだ。

車持集団は、ローカルな地方の豪族だったのかというとそうではない。
かなり古くから王権と深く結びついて、竹取物語にも登場(車持の君として)藤原不比等の生母も車持一族の出身だった。

そもそも もっともっと遡ると
崇神天皇(すじんてんのう)が二人の息子に自分のみた夢を語らせる。 
夢占いによって次男の活目尊(いくめのみこと)を自分の後継者に
兄の豊城命(とよきいりひこ)に東國(あずまのくに)を治めるように
決められたと日本書紀にある。

父は自分の皇位を次男に譲り
兄には東国平定という命がけの試練を与えたのだ・・・・


崇神天皇(すじんてんのう)→豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)→八綱田命(やつなだのみこと)→彦狭島命(ひこさしまのみこと)→御諸別命(みもろわけのみこと)→大荒田別命(おおたわけのみこと)→上毛野君(かみつけのきみ)→東国六原朝臣(あずまむつはらのあそみ)

何代にも渡り関東平野を開拓し、その勢力を拡大していった。

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※東国六原朝臣(あずまむつはらのあそみ)とは
六つの氏(うじ)が揃ってカバネ「君」(きみ)を変えて最高位のカバネ「朝臣」(あそみ)を得たのだ。
上毛野、下毛野、大野、池田、佐味(さみ)、車持(くるまもち)の六つの氏(うじ゛)の中の車持(くるまもち)が榛名山東麓を支配していたのだ。
上毛野東国六原朝臣の母胎は古墳時代前期には大阪湾沿岸の初期倭王権を支える有力な集団。
古墳時代中期には、文化・軍事面の両面で朝鮮諸国との交渉に活躍したと見られる。
渡来系の集団である。
蝦夷との戦いの為に東国に派遣され、東国在地の有力氏族との通婚・融合を深めつつ、東国六原朝臣として完成していったと見られている。※(熊倉氏より)


利根川を利用して 朝鮮半島と日本を行き来していたのか。
百済を救援に入ったり、王仁を招聘とたり・・・

~保守王国群馬・・・国会議員は世襲議員ばかり知事はエロ。。。
自民党に投票当たり前の愚民県群馬~

熊倉氏の文章を読んでいると現在の内向きな群馬県からは想像できない古代の姿が・・・
誇り高い精神性をもった古代の勇者たちの姿が、時空を越えてユラユラと立ちあがてくるような感動を覚える。

そのような渡来系優勢勢力の定住した痕跡が地名となってこの関東平野に残っている。
榛名山東麓一帯は、車持君の支配下にあった。
その繁栄の様子は今日「かみつけの里」として整備・保存されている。
かみつけの里散策はこちら

それまで上毛野や久留間 車評と表記されていたが 
和銅6年(713年)諸国の風土記編纂の勅が発せられ、国・郡・郷名は二字に改めるようになった。

上毛野(かみつけの)→上野(こうずけ)
車評(くるまのこおり)→群馬郡(ぐんまぐん)
となった。

その古代の豪族、車持君のそのままの、車持神社が一つだけ現存しているという。


愛馬ならぬ愛車に飛び乗り、一人、古代史探検へ

めざすは車持神社は、榛名山の中腹にある長谷寺(ちょうこくじ)白岩観音の近くのあると記憶していた。
やはりカーナビには出ない。
(地図を自宅に置いてきてしまった。)

以前知り合いの彫刻家が上毛新聞に群馬の仏像などについて連載していたので、その取材に同行させてもらい
一度だけ長谷寺 白岩観音に行ったことがある。
なんだか現代とは思えない奈良時代にタイムスリップしたような記憶がある。
伊香保温泉や水沢観音に何度もいったが、この長谷寺周辺は普段通らない道だ。
観光ルートとはまるで違う現代離れした時間の流れを感じる。

sくるまもち01
長谷寺 白岩観音
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手前は白山神社の社 隣は長谷寺から関東平野に広がる高崎方面を眺望する。
s行く道0002
記憶では、長谷寺のすぐ北方向だったので
この後、道路進行方向へ進んだが、それらしき神社はなかった。
いろんな道をいったら
やたら久留間という文字が目に着いたが神社には辿り着けなかった。
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sクルマ02
sついにくるまへ01
この日は無念の撤退。
※簡単にいけないから 魅力があるのだ。
しかし、次回はしっかり下準備しようと決意。
※②は前へ

かみつけの里を歩く③

2017.01.31.Tue.13:57
保渡田古墳群の中で一番最初に造られた井手二子山古墳。
5世紀第3四半期ごろの築造
最新の発掘調査から、被災者がヤマト政権や朝鮮半島との強いつながりを持っていたことが判明した。
そして、その中で得た先進技術により、水路を造って地域を開拓したり、馬の生産をおこなったりして、地域の開発産業の更新に多大な業績を残していたことが判明。
副葬品は、繰り返し受けた盗掘によりほとんど失われていると考えられていた。
ところが、主体部周辺の土を水洗いするなどの丹念な調査から、金属の装飾具、金銅の馬具、金銅製の冠または飾履(しょくり)、雲母製の装身具などの破片が発見された。
出土品には貴重な朝鮮半島製品が含まれていることから、この被葬者は朝鮮半島とのつながりを持っている人物であるという考えかたが主流になっている。
この古墳から県内で最も多く人物埴輪が採用された。
主要なものは、藤岡市にある本郷・猿田埴輪窯で生産されたものと考えられ、保渡田古墳群の築造を機に本郷・猿田埴輪窯の築造が開始された可能性が高いという意見もある。


s二子山01
二子山古墳も、本来は八幡塚古墳と同じように葺石と埴輪で飾られていた。
しかし、1500年という膨大な時の流れを経た古墳の姿を八幡塚古墳と見比べてもらう為にそのままの形で保存してある。
現在は、一面笹でおおわれている。
s二子山02
s二子山04
s二子山04 (2)
後円部頂上の1m地中に実物の舟形石棺が保存されている。
ここでは、実物大の石棺写真が見学できる。
s二子山03
最後に これは、この古墳を造った人のお墓・・・・
名のなき人々の一生をかけた労働の集積が1500年の時を経て私達に伝えようとしていることとは・・・・
王の墓よりもこの小さなお墓に
私はうたれた。

s二子山05

s二子山06

かみつけの里を歩く②

2017.01.31.Tue.13:29
ちょうどランチの時間に
北方向の隣に土屋文明記念館へ
記念館二階に彩花という農家レストランが土日だけ営業している。
「古墳カレー」800円など食べながら、ちょつと一息。
sかみつけの里002
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ランチ終了後は、西光寺へ
古墳前方部南面に西光寺がある。
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実はこのお寺に何年か前に伺ったことがある。
群馬の小金銅仏について調べている彫刻家のMさんに誘っていただき、
薬師塚古墳から出土した「小金銅仏」を一緒に拝観した。
小金銅仏は紫製一寸八部の薬師如来立像だった。
公式仏教伝来以前から各地の豪族はマイ・仏を持っていた。
もっと群馬の「小金銅仏」に光があたるようにして欲しい・・・
凄い価値のあるもので、これだけで、一つお堂が建つくらいの価値はあるのだが・・・
残念ながら、普通の人には、遠い存在になっているのが群馬の「小金銅仏」の現状。

☆写真はイメージです。
こういう小金銅仏を胸に抱いて王は永遠の眠りについたのだろうか・・・
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お墓と樹木に覆われた西光寺の裏に保渡田薬師塚古墳。
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この古墳は、正式な発掘調査が実施されていない。
保土田古墳群の中では最後に築造されたもの。
江戸時代に舟形石棺が掘り出され、拝見することができる。
その時出土した馬具・鏡・玉などの遺物は、かみつけの里に展示されている。

古墳の後円部に薬師堂が建つ
s西光寺02

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元々あった場所保管にされている舟形石棺も是非ご覧あれ
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お堂の建つ後円部から前方部を見渡すとやはり古墳だったことがわかる。
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裏手から見た保渡田薬師塚古墳
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かみつけの里を歩く①

2017.01.31.Tue.13:12
群馬県は、日本で一番古墳が多い県。
今から約1500年前
5世紀の古墳時代の群馬県は上毛野(かみつけの)と呼ばれていた。
本日は、高崎市で仕事完了後、高崎市井出町の「かみつけの里博物館」周辺を歩いた。
八幡塚古墳→西光寺と薬師塚古墳→二子山古墳→かみつけの里常設展示室 
解説文を全部読んで歩いて古墳時代にタイムスリップ。

かみつけの里常設展示は何度行ってもこの博物館を造った郷土史家・元かみつけの里博物館長・近藤義雄さんの情熱を感じる素晴らしい展示。
関東平野にも百済系新羅系高句麗系の渡来人が多く入植している。

300年続いた前方後円墳の時代
保渡田古墳群の中で二番目に造られた前方後円墳。
墳長96m、墳丘は井出二子山古墳と同じ三段築成で、二重の掘があり、内堀に4つの中島を持つ。
現在は、前面に葺石(ふきいし)を施した築造当時の姿に復元されている。

この巨大な王の墓を造る為に、当時の最高水準の土木技術を駆使して、とほうもない労働力を費やしたはず。
完成した王の墓とを見上げた人々の胸に去来した想いは・・・
苦役からの解放感か
聖域への畏敬の念か
共同集落への一体感か
初めての巨大モニュメント達成への歓喜か
古代人の精神世界を想像しながら歩いた・・・・

古代の榛名山麓一帯は「車持の君」が支配していた。
どんな豪族だったのだろう・・・

そこで「車持の君」「上毛野君」「豊城入彦」は今年のマイ・テーマとなった。

「かみつけの里」として、古墳を保存してくれた人達に感謝しつつ、一人、古代人のココロを想像しながら歩いた。

邪悪なものから古墳を守っている盾持ち人埴輪
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かみつけの里博物館すぐ側の八幡塚古墳5世紀後半に築造
人物・動物はにわを並べた区画
古代の儀式・狩猟の様子・王の権威を示す財物の列・・からこの古墳に眠る王の権威を表現している。
sかみつけの里01
☆「現代の私達からすると一見奇異な感じのする王様の人物埴輪だが
実は騎馬民族のスタイル
筒袖(つつそで)、丸首の上着とズボンは、騎馬民族のスタイルであった。」
京都橘大学名誉教授 猪熊兼勝氏
~古墳時代の人々はそれを忠実に表現している。
sかみつけの里02
榛名山東南麓の井野川上流にあるこの3つの前方後円墳を総称して保渡田(ほどた)古墳群という。
5世紀後半から6世紀初頭にかけて、井出二子山古墳→保度田八幡塚古墳→保度田薬師塚古墳の順で造られた。
当時の東日本において、極めて優勢であった豪族たちの墓所として、国指定遺跡になっている。
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sかみつけの里05
頂上から次に行く西光寺・薬師塚古墳方向を見渡す。
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頂上から階段を降りると・・
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王の眠るひつぎ
舟形石棺(ふながたせっかん)
身も蓋(ふた)も大きな石をくり抜いて造った棺(ひつぎ)
ヤマト政権から高い地位を認められた豪族のみに許された形。
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見事な葺石(ふきいし)
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葺石(ふきいし)工事の様子を推定したイラスト図
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中島から西光寺方向を見渡す。
そもそも中島とは・・・
掘のなかに直径約18mの円い島が4つ造られている。
ここは、古墳被葬者に対するマツリ(葬送儀礼)が行われた場所。
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兵庫・淡路島北部で鉄器大量出土 弥生期、高度な技術集団か

2017.01.27.Fri.12:54

兵庫・淡路島北部で鉄器大量出土 弥生期、高度な技術集団か

2017年1月25日 17時51分 東京新聞


 兵庫県淡路市教育委員会は25日、同市にある弥生時代の舟木遺跡で、4棟の竪穴建物跡や鉄器57点などが見つかったと発表した。鉄器を製作したとみられる炉の跡や、針状で工具として使ったと推測される鉄器が含まれており、鉄製品の加工、製作ができる「大規模な鉄器工房」があった可能性がある。

 同時に出土した土器の年代から、工房があったのは2世紀後半~3世紀初頭とみられる。南西約6キロには鉄器127点が過去に見つかった五斗長垣内遺跡がある。同遺跡は鉄器製作の拠点と考えられており、専門家は淡路島北部に高い技術を持つ集団が存在したことを示すと指摘している。

(共同)

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続きはこちらへ

金浩さんからのオススメ読書

2017.01.27.Fri.11:27
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鹿児島県の「姶良市(あいらし)」について

2017.01.26.Thu.08:25
言葉の語源 その111

皆さん、久しぶりの語源のお話です。秋からずっと忙しかったので、今年は色々と散策して、また語源のお話も沢山ご紹介していく所存です。いつもながら長文で、老眼には酷でありますがどうぞよろしくお願いいたします。

皆さんは鹿児島県の「姶良市(あいらし)」と言う所をご存知でしょうか?桜島のある「鹿児島湾(錦江湾)」の北部にあり、朝鮮人陶工が発展させた薩摩焼の系統「龍門司焼窯」がある街でもあります。今日はこの姶良市のお話をしようと思います。

姶良市は元々姶良と言う地名ではありませんでした。江戸時代に入ってからここを「姶良郡」を制定してから姶良と呼ばれるようになりました。江戸時代以前は「始良郡(しらのこおり)」と呼ばれており、「姶良郡」は元々別の地区、鹿児島湾北東部にある現在の「鹿屋市(かのやし)」周辺にありました。「姶良」は「あひら」と表現し、鹿児島地方の方言では「ひ」を「し」と言うので、「姶良郡(あしらのこおり)」と発音し「始良郡(しらのこおり)」と読み方の類似、また漢字の類似から混乱が生じてしまいました。結局は双方「姶良」に統一されますが、元々の姶良郡は肝付と統合され消滅してしまいました。

さて現在の姶良市が「始良郡(しらのこおり)」だと言う事はお分かりになったと思いますが、この「始良」は「始羅」とも表記されました。実はこの「始羅」、その語源が「新羅」だったと言われております。元々大分県宇佐地方の人口の9割を占めていた新羅渡来人は、大和朝廷の命により、熊本、鹿児島地方の隼人制圧のために半数が鹿児島に移住をさせられます。その定着地が鹿児島湾北部であり、その地で新羅渡来人達は段々と勢力を強めて行きました。ちなみに鹿児島の島津藩藩主のご先祖様も、この新羅渡来人だそうです。

さて、姶良市の東部にこの島津藩藩主、島津義弘を祀る「精矛神社(くわしほこじんじゃ)」が鎮座しております。歴史は浅くここの宮司さんは島津義弘の末裔で、島津一族がこの神社を守り継いでおります。実はこの神社の境内に、大変興味深い物がありました。それは朝鮮伝来の手水鉢と石臼です。石臼は穀物を粉にするため挽く石でできた道具、手水鉢はお寺等で手を清め洗うために水をためる物だとはご存知かと思います。では何故ここに朝鮮渡来の手水鉢と石臼があるのか?それは椿窓寺の住職であった鳳山和尚が「壬辰倭乱(イムジンウェラン)」、「丁酉再乱(チョンユチェラン)」、文禄慶長の役で従軍した際に持ち帰ったと言われております。

当時島津藩からもかなりの武士が船で朝鮮に派兵されました。当時の船は船体を安定させるバラスト水等はなく、荷物の重量で安定させておりました。行きは武士がたくさん乗っておりましたが、帰りはほぼ空の状態で船が浮き安定しない事から多くの石製品を船に積んで帰りました。その時に積んだ代表的な物として、陵墓の文官武官石像、馬、羊、虎の石像、石灯篭、石塔、石碑、石橋等、ありとあらゆる石製品を船に積んで安定させたと言われております。ここの石臼と手水鉢もその一つです。日本に持ち帰られたこれらの品々は、現在も各地に現存しております。この石臼と手水鉢、当初は島津屋形にあった物が、島津藩主が亡くなった後に護国神社へ、さらに大正7年にこの神社に移されたと言う記録が残っておりました。

鹿児島県姶良市に鎮座する「精矛神社(くわしほこじんじゃ)」拝殿
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精矛神社の鳥居
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鳥居脇の由来書と石碑
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石臼と手水鉢の案内板
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拝殿右わきにある朝鮮伝来の石臼
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同じく手水鉢
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こんな形で置いてあります。
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いかがでしたか今日の語源話。
姶良市に行かれた際にお時間があれば、是非立ち寄られてみてください。
では、また次回・・・