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安曇族関係地⑥

2016.10.19.Wed.09:09
★揖保川(いぼがわ)取水口
(兵庫県揖保郡太子町)
孝徳天皇(645年頃か)の頃
安曇連百足がこの地を視察した際に自生する稲穂を見て、ここを開拓することを天皇に進言した。
そこで石見の国(石見銀山、島根県)から職人集団を招き、水路開拓などを行い石海(いわみ)の里(原太子町)を肥沃な地に変えたという。
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★兵庫県揖保郡太子町
江戸時代には水利権争いが激しく、揖保川から取水して支流の林田川に水を落とし、そこから岩海(いわみ)の里を潤したという。
絵図右下が石海の里(現太子町)
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★楽々福神社
(米子市上安曇)
米子市の上安曇地区の中央に鎮座する神社。
祭神は、考霊天皇だが、おそらく最初は、鉄の神を祀ったと考えられる。
「楽々」は砂鉄を意味し、「福」は鞴(ふいご)を次々吹く意味である。
米子の日野川流域には「楽々福神社」がこの上安曇の神社をはじめ日南町などに7社もあり、製鉄との関連を想像させる。
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★法勝寺川は赤い川
(米子市)
米子市内を流れる日野川に流れ込む法勝寺川は見るからに赤い。
この上流はかつて砂鉄の産地であったという。
周囲を見渡すと田園地帯のなかに小山が散在する。
当時のこの辺は、入海で、これらの小山は島であったことが想像される。
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安曇族関係地⑤

2016.10.19.Wed.09:03
★太田神社
(滋賀県高島市新旭町)
明治以前、この神社境内には、住吉三神と豊玉彦神、豊玉姫神、猿田彦神の六神が祀られていた。
「六所舟魂大明神社」があったとのこと。
この社には安曇連の祖神であったと言われ、いずれも海人系の神々である。
この辺りが安曇氏の領地といえる。
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★安曇比羅夫(あずみのひらふ)の墓
安曇比羅夫は白村江の戦い(663年)で戦死。
この墓碑には「宝永三年(1706)丙戌 十一月二十四日大将軍墓補川妻善太夫」と刻まれている。
人々は、「大将軍塚」と呼び、安曇比羅夫の墓と伝えている。
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★安曇族滋養陸の地・岩見港
(兵庫県たつの市御津町)
安曇族の関係地揖保郡太子町の南にある岩見港は瀬戸内海の漁港。
神功皇后が三韓征伐の折りにこの地に立ち寄ったとされる。
また、安曇族がここに上陸したと言い伝えが残されている。
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★安曇川(あどがわ)河口
比良山地と丹波高地の渓谷を流れ下る淀川水系の一級河川。
高島市安曇川町辺りから三角州を形成し、川幅が広がる。淀川から、安曇川を経て、安曇族は入り込んで来たのだろうか。
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安曇族関係地④

2016.10.19.Wed.08:47
★安曇(あど)橋
(滋賀県長浜市高月町西阿閑にしあつじ)
琵琶湖畔の西阿閑地区を流れる小川北ノ川にかかる橋。
高月町は安曇川町とは琵琶湖の対岸にあたる田園地帯である。
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★恋路ケ浜(こいじかはま)
太平洋を望む渥美半島突端に位置する島崎藤村の詩「椰子の美」で有名。
恋路ケ浜西方に「阿祖の磯」と呼ばれている所があり「竜神」を祭祀していた祠があったという。
祭神は綿津見神で「阿祖」の地名は「阿曇族の祖」から付けられたと伝えられている。
神島にある八代神社の祭神は、綿津見神である。
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★阿志都弥神社
(滋賀県高島市)
祭神は、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)命
(瓊瓊杵尊の妻、神武天皇の祖母)
式内社である。
木花咲耶姫命の別名が葦都姫命で、そこから神社名がついたと思われる。
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★阿志都弥神社前の水路
(滋賀県高島市)
安曇族の領地といわれる付近は、水が豊かな地である。
家々の前には、鯉が泳ぐほど、きれいな生活用水が流れ、洗い物なとが行われている。
この辺りは地下2メートルくらい掘れば地下水が湧き出るとのこと。
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★安曇氏の氏寺蒲生の薬師堂跡
(滋賀県高島市新旭町)
安曇比羅夫の墓の近くに安曇氏の氏寺といわれる「蒲生の薬師堂跡」がある。
本尊は、薬師如来で、比羅夫が白村江の戦いで使った軍船の帆柱で刻んだ仏像が7体あったと言われている。
安曇氏の菩提を弔うために建てられたとされる。
織田信長の兵火により仏像も堂宇も焼失した。

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安曇族関係地③

2016.10.19.Wed.08:01
★伊良湖岬灯台
(愛知県田原市渥美町)
渥美半島突端。
ここから南に見える神島(三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台)にある八代神社の祭神は、綿津見神である。
また、伊勢湾岸沿いの砂丘地帯にある藤原古墳群は、海人集団の古墳と言われ、製塩土器などが出土している。
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★妻木晩田(むざばんだ)遺跡の四隅(よすみ)突出型墳丘墓
美保湾を望む風光明美な高台にある遺跡群。
鳥取県大山町から米子市淀江町にわたる国内最大級の弥生時代(中期から後期)の集落遺跡。
遺跡の面積は156ヘクタールに及ぶ。
竪穴住居395基、掘建柱建物跡502基、墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)24基、環濠等が発掘、一部復元されている。
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★穂高神社
(長野県安曇野市穂高町)
安曇族第二の本拠地とされ、祭神は穂高見神・瓊瓊杵神・綿津見神の三神を祀る。
北アルプス奥穂高岳に嶺宮が、上高地の明神池ほとりに奥宮が鎮座する。
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★斑鳩寺(いかるがでら)
(兵庫県揖保郡太子町)
606年(推古天皇14年)聖徳太子が推古天皇から播磨国揖保郡の土地360町歩を賜り、大和国斑鳩宮から移住し当地を斑鳩宮(鵤荘)と命名、伽藍を建立したのが始まり。
国の重文である三重塔が有名。
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安曇族関係地②

2016.10.18.Tue.15:51
★志賀海神社の中津宮(勝馬宮)
    (志賀島)
志賀島北端(勝間地区)の海にある沖津宮、そこから南の内陸部に中津宮、さらに南に表津見があった。
2世紀~4世紀に表津宮(底津綿津見神)が現在の勝山に遷座、あわせて仲津綿津見神、表津綿津見神が奉祀されたと伝えられる。
勝つ馬の中津宮近くに7世紀頃築造の中津宮古墳がある。
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★金印発光地と「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印
     (福岡市東区志賀島)
江戸時代の天明4年(1784年)、志賀島の南端「叶崎」で出土。
発見したのは地元の農民。
建武中元2年(57年)、後漢の光武帝より奴国王に授けられた金印とされる。
出土地付近は、「金印発光地」として、公園となっている。
現在、金印は福岡市博物館に保管・展示されている。
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★宗形神社
    (米子市)
宗像三女神を祀る式内社。
創建年代は不詳だが、北九州より宗像氏族が、祖先神の宗像三女神を奉じて九州からこの地に来て、斉祀したのが起源と伝えられている。
周辺には宗像古墳群がある。
加茂川流域にあり、住古はこの辺は入海であったと伝えられる。
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★阿陀萱(あだかや)神社
   (米子市)
大国主命と八上姫の娘阿陀加夜奴志多岐喜比売命が因幡に向かう途中、この地の榎の木に指を挟み抜けなくなって、この地で子どもを産んだことから安産の神として、祀られた神社。
隼人系の阿多族との関連を想起させる。
米子市の加茂川流域は宗像・住吉・阿多・安曇が同居している感がある。
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安曇族関係地①

2016.10.17.Mon.14:49

★わけあって 安曇野に一泊。
(実は、家族旅行なのですが)
穂高神社の資料館に行く度に、「安曇族の分布」の展示をブログにupできたら・・・と思っていました。
今回、時間があったので、資料館の許可を得て、撮影しました。
そして、解説文章を復元して、ここにupいたします。

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★安曇族は福岡の志賀島を拠点に日本各地にその足跡を印した。
主な安曇族関係地一覧
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★海の中道より見た志賀島全景
(福岡市東区)
島の右側が玄界灘、左側が博多湾。
かつては島であった。
安曇族が大陸からこの島に上陸したと考えられる。
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★綿津見三神を祀る志賀海神社
(志賀島)
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎはらい)の際に誕生した広津綿津見、中津綿津見、表津綿津見 三神を祀る。
代々宮司は、阿曇氏が務める。
綿津見神社の総本宮。
県指定無形文化財の神事「山誉漁砂祭カ(やまほめかりすなとりさい)」が例年11月15日に挙行され八乙女の舞が奉納され、祝詞に「君が代」が奉納された。
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埋もれた歴史、朝鮮人陶工の話⑩ ~薩摩焼編~

2016.10.13.Thu.10:17
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★金浩さんのフェイスブックよりシェアしました。

埋もれた歴史、朝鮮人陶工の話⑩ ~薩摩焼編~

みなさん、引き続き薩摩焼のお話をさせていただきます。
苗代川(現美山)の朝鮮人陶工達は、薩摩藩直轄の管理下に置かれるようになり切米を拝領しますが、外部との接触禁止、外部との婚姻も禁止、風習、言葉等も朝鮮の物を維持させ、名前も日本名を名乗る事を禁止されて暮らして行きます。朝鮮人陶工達は元々別な技術者だった様で、苗代川で製陶につきながら、樟脳製造、養蜂、土木測量、医学、刺繍、瓦製造、木綿栽培等の仕事も手掛けていたようです。その中に「沈」一族がおりますが、初代は慶尚北道青松に本貫を置く「沈当吉」と言う人物だったそうです。歴代沈一族で一番活躍したのは幕末の十二代目沈壽官でした。

十二代沈壽官は幕末期の藩営焼物工場の工長を務めます。1867年のパリ万博に薩摩の朴正官が薩摩焼を出品すると大絶賛を受けました。続く1873年のウィーン万博に十二代沈壽官が出品をして更に大絶賛を受け、世界に「SATUMA」の名前をとどろかせ薩摩焼の地位を確固たるものとしました。しかしその後薩摩焼は急激に衰退の一途をたどります。それは藩制度の廃止、つまり廃藩置県により藩営の窯が全て県所有の民間会社になったからです。そして苗代川の朝鮮人陶工達は藩から切米を拝領していたのに、廃藩置県後は「士族」扱いではなく「平民」扱いを強いられ、大きな差別を受ける様になります。

十二代沈壽官はこのままではダメだと、私財をなげうって窯と工場を購入して、現在の「沈壽官窯」の前身、「玉光山陶器製造場」を設立します。そこで焼成した薩摩焼は、国内で数々の賞を受賞して輸出にも乗り出しますが、1905年十二代沈壽官は亡くなってしまいます。十二代沈壽官の長男は父の名を襲名して、十三代沈壽官として活躍をしますが、日本の植民地政策により偏見と差別の苦難の時代を迎えます。十三代目沈壽官は苗代窯で陶器組合長として40年もの間尽力を尽くして1964年に亡くなってしまいます。

後を継いだ長男は更に名前を襲名して、十四代目沈壽官として窯業に努めます。そう、この従四代目こそ、司馬遼太郎先生の短編小説「故郷忘じがたく候」の主人公なんです。十四代目は1989年に大韓民国名誉総領事就任を承認され、1998年に行われた国際的イベント「薩摩焼400年祭」の成功により、金大中大韓民国大統領より民間人としては最高位にあたる大韓民国銀冠文化勲章を受章しました。現在は高齢でもあるので、長男が十五代目沈壽官を生前襲名して活躍をしております。

沈壽官窯を訪れ立派な門をくぐった先には、済州島の「トルハルバン(石のおじいさん)」と日韓の国旗がお出迎えをしてくれます。そして中庭には二つのお墓と朝鮮の窯の神様が祀られております。二つのお墓は竿石に、初期のハングル訓民正音表記で名前が彫られており、この家の元の主に仕えた朝鮮人の下男下女とも、朝鮮から連れてこられた時後に従事した宮女とも言われておりますが詳細は不明だそうです。さらに奥には、歴代沈家の作品や歴史が展示された建物と、十四代目沈壽官、十五代目沈壽官の作品が販売されているギャラリーがあります。ギャラリー横には年に一度火入れが行われる、沈家代々の登り窯も見る事が出来ます。

苦悩の時代を生き抜き差別と偏見に苦しみ生き抜いた苗代川の朝鮮人陶工とその末裔は、現在もその技術を伝承し続けております。次回は、窯業以外に活躍した苗代川の朝鮮人陶工の末裔のお話をしたします。

埋もれた歴史、朝鮮人陶工の話② ~薩摩焼編~

2016.10.03.Mon.12:02
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埋もれた歴史、朝鮮人陶工の話① ~薩摩焼編~

2016.10.03.Mon.11:42
★金浩さんが写真11件を追加しました。

埋もれた歴史、朝鮮人陶工の話⑨ ~薩摩焼編~

みなさん、前回(8月25日投稿)から一月以上が経ってしまいましたが、今日も薩摩焼の続きをお話しします。その前にちょっと予備知識を・・・
薩摩焼と一言で言ってもその系統は5つあり、2系統は絶えてしまいましたが、美山の「苗代川(なえしろがわ)」、姶良で始まり後に鹿児島城下に移った「堅野(たての)」、加治木の「龍門司(りゅうもんじ)」の3系統が現在も残っております。もちろんこれらすべて、連れてこられた朝鮮人陶工が陶祖で開窯した系統です。

南原城近辺で捕えられた朝鮮人陶工達は3集団に分かれて薩摩に連れてこられました。薩摩に上陸した朝鮮人陶工の記録では、前回お話しした照島に第一集団18性43人(安、燕、張、李、朴、卞、林、鄭、車、姜、陳、崔、盧、羅、丁、何、朱、黄)でした。このうち黄、羅、燕性は一代で絶えてしまい、安、張性一族は「焼物指南」のために琉球(沖縄)の地に送られ、現在那覇市首里城下にある壺屋焼の陶祖となります。第二集団は東市来神之川に3性10人(金、申、盧)が上陸し、第三集団は鹿児島市前之浜に男女20人ほど(李、渭、川、光、春、金)が上陸します。このうち金、光性は朝鮮国王の親族だとされ本国に送還され、残りは鹿児島市内の高麗町に居住させられます。ちなみに高麗町と言う地名は、朝鮮人陶工達が居住した事から、そう呼ばれるようになりました。

さて、照島付近に上陸した集団は、数々の迫害に会い、後に苗代川(現美山)に移住を決心します。そこには高麗町に居住していた集団も加わり、朴平意が薩摩藩から庄屋の称号と4石を与えられ、苗代川は焼物の集落に変わって行きます。しかしながらここの朝鮮人陶工達は、外部との接触を制限されたり、婚姻関係も陶工同士ではないとダメだと、かなり厳しい制限の中で生活を送る様になります。この他にも様々な制限があり、ある意味篭の中の鳥状態での生活でした。何代にもわたって言葉は全て朝鮮語であったとも言われております。

苗代川に移住した陶工達は時折山の上に登り、望郷の念から山の上から望む島(甑島といわれている)を朝鮮半島だと思い懐かしみ眺めていました。そんなある日、海の彼方から大きな火の玉が飛んできて蜂巣ヶ谷の大岩の上に落ち、昼夜問わずこうこうと燃え続けたそうです。 それを恐れた陶工達は、その大岩を奉ることにしました。すると火の玉は消えたので以来この大岩を朝鮮の神、陶器の神として信仰の中心である「玉山神社」を創建しました。実は最初の祭神は建国神話の「檀君」だったんです。玉山神社は地元の人々は「コレガンサー(高麗神様)」と呼び、神事や祝詞は朝鮮語と朝鮮の打楽器で行われていたそうです。その資料は現在も、東郷茂徳記念館に展示されております。

玉山神社に行く途中、左側には集落の共同墓地があります。そこには朴平意の記念碑があり、道沿いの藪の中には最近見つかった初代車氏、二代目車氏のお墓もあります。この車氏は陶工でありながら石積みの技術も持っていたと言われております。詳しい資料は残っておりませんが、鹿児島市内の江戸時代初期に作られた石橋建設には、この車氏も加わったとされております。

さらに苗代川の陶工達の中には、樟脳の精製技術を持った人もおりました。樟脳とは現在で言う衣類の防虫剤の事で、ドイツ語で訳せば「カンフル」、つまりカンフル剤の原料でもあったんですね。当時は気付薬としても多く使われておりましたが、金、銀、銅に次ぐ貴重品だったそうです。当時世界の樟脳の9割はここ薩摩藩から輸出されており、そのすべてを苗代川の朝鮮人陶工が精製していた事はあまり知られておりません。この樟脳を精製した人物は鄭宗官と言う人であり、元は陶工ではなく医術関係者だったのではないかとされております。現在も美山インターから下った道沿いに、この事が記された大きな記念碑が建っております。

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