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火祭りの大島を歩く②

2016.08.19.Fri.18:10
大島の集落は、古い養蚕農家の建物が多かった。
83歳の地元の老人と会話をした。
現在、養蚕をしている家は、一軒もないそうだ。

老人が生まれる前から、大島の火祭りは、毎年行われてきたそうだ。

1300年間続いているというこの行事
「約1300年前にこの地を治めていた羊太夫は領民からの信望が厚かったが朝廷から謀反の嫌疑を掛けられて滅ぼされたという伝説がある。火祭りは、領民たちが羊太夫の遺徳をしのび、非業の死を弔うため始められたという。

現在は、同地区住民によってその年にちなんだ事象や願いを込めた文字が当日に決められ、毎年違う火文字が灯される。
今年は昨年の「平」に続き「世の中が平和になりますように」との願いから「和」が選ばれたという。」2016・8・18 東京新聞より


集落には、小間さんという家が何軒もあった。
かつては、高麗さんだったのでは?とつい想像してしまう。

火祭りがおこなわれる高速道の城山北面のすぐ下の温泉、大島鉱泉も小間さんという苗字だった。

大島鉱泉には北向観音平素札所があった。


高速道の城山北面の真下に位置する大島鉱泉
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人影まばらな大島鉱泉、地元の人が利用するのだろうか?
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大島鉱泉には北向観音平素札所があった。

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火祭りの大島を歩く①

2016.08.19.Fri.18:01
毎年8月16日に 羊太夫を偲んでおこなわれる大島の火祭り
その火祭りの里、大島を歩いてみようと富岡市に仕事で行った帰り道に思いついた。
車を降りてカメラ片手に歩いてみた。

和合橋から鏑川の向こうに見える
一文字が灯される城山北面の斜面スペースを眺望する。
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和合橋のたもとに、竹を括り付けてある。
この地方のお盆の風習だろうか?
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大島は「北向き観音」でも有名だ。
でも、何故か、いつも行きつけない、不思議な名所だ。
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上高瀬の集落から野上川にかかる船川橋を渡って、大島の集落へ
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つづく

三角(みかど)を探して②

2016.08.19.Fri.17:38
集落を通る道路を歩いていくと「新三角橋」があった。
やっぱり、ここは、三角(みかど)だ。
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集落の一番上に登ると砂防ダムになっていた。
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ここが、本当に
古代の窯場だったのか。
三角(みかど)だけど、多胡姓はいない。
もう、一か所の三角(みかど)は、どこにあるのだろう?
~それは、地元の歴史通の人に教えてもらわないとわからない。~
課題は残るが、大満足で帰路に着いた。
三角(みかど)、そこは歴史を秘めた美しい集落だった。

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三角(みかど)を探して①

2016.08.19.Fri.16:23
「群馬県 謎解き散歩」を読んでいたら
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奈良・平安時代には秋間丘陵に県内有数の窯業がつくられ、瓦・須恵器を上野国(かみつけのくに)の諸施設造営のために大量に供給していた。
だが、国府・国分寺跡出土瓦には生産地が記されている例が多いが、この窯場で生産された瓦には、なぜか一切表記がない。
国府直営の窯場だったことによるものであろうか。
窯場の中心地区には「三角(みかど)」の地名が二カ所に残されているが、地域には多胡(たご)姓が多く、「多胡碑」と称する碑まである。
高崎市吉井町の多胡碑建立の地が「御門(みかど)」であることも示唆深い。
窯業つながりだろうか。
(大工原 豊)

羊太夫伝説を書いたころから、いつかいつか行ってみようと思っていた。
下秋間の多胡集落。
古代の窯場だった三角(みかど)。
多胡碑のある場所も「御門(みかど)」という。
御門・・つまり「天皇のいる場所」だったのだ。
大和朝廷によって、討たれる前までは・・・

自宅から15分もかからないのに
何故か遠い場所だった。

近くて遠い三角(みかど)にときめいた。

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多胡碑発見かと思ったら、「多胡庄吉翁の碑」とあった。
地域の発展に貢献した人物だろうか?
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里山がそのまま墓地になっている。、
丁寧に手入れされていて、気持ちの良い空間になっていた。
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手入れされた田園の向こうに「三角(みかど)」と呼ばれる地域を発見した。
美しい風景。
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車を止めて集落の周りを歩いた。
公民館はなかった。
「多胡さん」という家もあまり確認できなかった。

こんどの日曜日にもう一か所の三角(みかど)を見つけてみよう。

福井県の百済②

2016.08.19.Fri.07:22
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福井県の百済①

2016.08.19.Fri.07:04
‎金浩‎ ― 한성백제 くだらの道より転写しました。
言葉の語源

さて、今回は福井県の百済のお話をしたいと思います。
福井県越前市と言えば越前和紙と刃物で有名な地でありますね。越前和紙と言ってもピンとこない方、実は皆さんよく知っている所で使われているんです。それは、浅草雷門の赤い大提灯なんです。

さてさて話を戻して、この越前市のはずれには朽飯町(くだしちょう)と言う地に「八幡神社(はちまんじんじゃ)」が鎮座しており地元では「朽飯八幡神社」と呼ばれております。八幡神社自体はあまり珍しくないのですが、この神社の由来に面白い事が書かれておりました。「麻羅宿禰(まらのすくね)の後裔(こうえい)、服部連(はとりのむらじ)が織部司に任ぜられ当地に下向して服部郷と命名し、煩速日之命を八架神に合祀して鎮守としたことに始まるものと伝えられる・・・百済国の怒理使王(ぬりのおみ)の孫で、阿久太(あくた)の子の弥和(みわ)をはじめ、機織りに長じた織姫たちが渡来し、養蚕と絹織りの技術を郷民に教え、そこで生産された絹織物は貢物として朝廷に上納された。」ここで麻羅宿禰と服部連は伽耶系新羅の渡来人、怒理使王は百済の渡来人。つまりこの一帯ははじめ新羅渡来人が治め「服部郷」と呼ばれていた所に、百済渡来人が入植してきた地なんですね。現在もその名残として、ここを服部谷と呼んだり、河川名も「服部川」が確認できます。更に諸説色々とありますが「朽飯」と言う地名、一説には「百済氏(くだらし)」の転訛だと言われております。つまり、地名と歴史のミルフィーユ地帯なんですね。

この越前市、実はもう一つ面白い歴史がありました。それは「継体天皇」が幼少期に育った場所でもあるんです。継体天皇とは日本の第26代目の天皇ですが、現在の皇室の初代天皇と言われております。それ以前の天皇は代が途絶えたり記録が欠落しており、その実在や年代がはっきりしていないんです。なので、確認が取れている実在する天皇としての初代天皇と言われております。

現在の平成天皇が数年前に発表した内容で、自分達には百済の血が流れていると言った事はご存知でしょうか?第50代目の桓武天皇(かんむてんのう)の母方が百済人と言う事を述べておりました。しかし、この継体天皇も多くの歴史学者が百済人ではないかと言っており、沢山の本も出版されております。自分も福井県に行ってそう感じる事が多々ありました。それはこの継体天皇ゆかりの神社をまわれば一目瞭然です。

越前市池泉町には「味真野神社(あじまのじんじゃ)」が鎮座しておりますが、この神社は元々継体天皇が幼少期に過ごした宮居の跡なんです。そしてその案内板にはまっている鬼瓦、じつは百済の建物に使われる物にそっくりなんです。そしてそのわき道を3kmほど東に行くと「五皇神社(ごおうじんじゃ)」が鎮座しております。この神社は元々、継体天皇が幼少期に勉強をした学問所があった場所です。ここの案内板のモニュメントは、百済の蓮の瓦の形をしております。更に更に、ここの看板に描かれている古代の人の服装も、朝鮮半島の服装にそっくりなんです。ある意味、福井の出島と言わんばかりの地でした。これは何を意味するのか?やはり継体天皇は百済人だったのではないかと言う説に信憑性が出てきましたね。

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惟喬(これたか)親王ゆかりの寺を探す②

2016.08.08.Mon.09:06
群馬県北甘楽郡史 本多亀三著より

実相寺 天台宗  法性山妙法教院

大字南蛇井村に在り。
当寺の縁起を尋ぬるに、人皇第五十五代文徳天皇第一の皇子惟喬親王、かねて出塵(出家)の御志深く、貞観十四年、上野太守として当国へ御下向の切、いたく当山の霊地なるを賞したまひ、一夏九旬の間、籠山御修行あらせられしに濫觴(らんしょう)し、天台座主尊意僧正を開山に仰ぎ、その縁最も畏く、其源いとも遠し。
第二世尊興阿闍梨に至り、堂塔の大観備はりて、蘭若(ランニャ)の礎、永く定まり、開山師の法性坊といひしに縁みて、法性山と名づけ、又尊貴の芳髑を記念して、惟喬道場・中道坊・談議所・妙法教院実相寺と称し、 ●来法運綿々として、遮那止観の両業、双輪の美を競ふ。~
~只今、解読しつつ、入力中~つづく  

惟喬(これたか)親王ゆかりの寺を探す①

2016.08.05.Fri.16:47
木地師の業祖とされる惟喬親王
→木地師と惟喬親王については、カテゴリ木地師の里にup済み
~その惟喬親王が、群馬の甘楽郡の南蛇井付近のお寺に滞在していたことがある~
ということを昨年、県立図書館で借りた本多亀三著「群馬県北甘楽郡史」で初めて知った。
「えっ−!ホントに!」
それは、是非、行ってみたい。

そして、本日、カメラと資料を持って、「惟喬親王の滞在したお寺」探検に出かけた。

念願のカーナビ(12000円)を取り付けて、幸せな気分で出発した。
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群馬県甘楽郡下仁田町
上信電鉄の千平駅
小さな駅だ。
その駅から道なりに登って行く。
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小高い丘の上にお寺があった。
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法性山 実相寺。
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下仁田の町が一望できて、とても気持ちよい場所だった。
この地をいたく気に入った惟喬親王の気持ちが、わかるように気がした。
来てよかった。

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悲運の皇子として、木地師の業祖として、各地に伝説が残る惟喬親王。
この里の穏やかな眺望に心癒され、出家の決意をし、精進されたのではないだろうか。

などと想像し、孤独な皇子の心に寄り添うことができたような気持がした。
私も心も満たされて帰路に着いた。



惟喬親王伝説

2016.08.05.Fri.16:42
★滋賀報知新聞より
東近江発の超大型情報 「惟喬親王伝説」を追う
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■平成21年1月4日(日) 第15229号
=中島 伸男=
惟喬親王像(東近江市蛭谷町・帰雲庵蔵)―『永源寺町史』より転載―
◇東近江
 惟喬親王(これたかしんのう)は「木地師の祖」とされ、わが東近江市にとって忘れられない歴史上の人物である。親王は「悲運の皇子」であった。それゆえの伝承が東近江を発信地として、広く全国につたわった。

■運命の暗転
 惟喬親王は承和十一年(八四四)、第五十五代文徳天皇(もんとくてんのう)の長子として生まれた。幼いころから聡明で、父・天皇は親王をことのほか愛されていたという。親王が七歳のとき、弟宮・惟仁親王(これひとしんのう)が誕生された。この時点で惟喬親王の運命は暗転した。
 惟喬親王の母・静子は紀氏出身である。紀氏は由緒ある氏族であるが、政界では勢力がなかった。いっぽう、あらたに誕生した惟仁親王の母は、太政大臣・藤原良房の娘、明子である。良房は、外戚の地位を利用し誕生まもない惟仁親王への皇位継承を企てた。その結果、生後九ヶ月の惟仁親王が皇太子に定められた。
 天安二年(八五八)、文徳天皇崩御。良房の敷いたレール通りに皇太子・惟仁親王が即位、清和天皇となられた。

■風雅の世界に遊ぶ
 青年期の親王は、このような不運を文芸や狩猟など風雅の世界に遊ぶことで紛らわされた。
 『伊勢物語』には、親王が在原業平(ありはらのなりひら)とともに水無瀬(大阪府島本町)の離宮や、天野川に近い渚の院(枚方市)で鷹狩りを催された話が出ている。親王は狩猟もほどほどに酒宴をひらき、歌を詠んで愉しまれるのが常であった。親王と業平は姻戚関係にあり、おおいに気があったらしい。
 貞観十四年(八七二)七月、惟喬親王は病をえて出家、比叡山の麓・小野の里に隠棲し「小野宮」と呼ばれた。二十九歳であった。大原三千院に近い大原上野町(京都市左京区)や雲ヶ畑、大森東町(京都市北区)などが隠棲地とつたえられている。
 ある冬、業平が小野の里に親王を訪ねた。親王はいかにも寂しげにしておられた。業平は、「深い雪を踏み分けて参りましたが、このような所でわが君にお逢いしようとは思ってもみないことでした」との歌を残した(『伊勢物語』)。
 寛平九年(八九七)二月二十日、親王は五十四歳で亡くなられた。
 以上が史料で辿ることのできる親王の生涯である。
 平安王朝の華やかな表舞台から退き山深い里に隠棲、病没された悲運の親王は、やがて、木地の良材をもとめ山野を渡り歩いていた山の民により、「木地師の祖」として甦り篤い尊崇をうけることになった。


惟喬親王墓所(宮内庁治定・京都市左京区大原上野町)
■小椋谷の伝説
 愛知川最上流の小椋谷(「六ヶ畑」と呼ばれる君ヶ畑・蛭谷・箕川・黄和田・九居瀬・政所の地域。東近江市)では、戦国時代から木地師(きじし)が活動していたといわれる。
 木地師とは、山中の樹木を伐りだし轆轤(ろくろ)を使って木製の椀や盆など、日常生活品を作り出す職人である。適当な材木がなくなると、山から山へと良材をもとめ各地に移住した。その根元の地ともいうべき小椋谷に、惟喬親王伝説が芽生えたのは近世初頭のことである。
 蛭谷(筒井公文所・筒井神社)や君ヶ畑(高松御所・大皇器地祖神社)につたわる惟喬親王「御縁起」には、およそつぎのような物語が記されている。
 「天皇の位を弟宮に譲られた親王は世の無常を儚み出家されたが、都にとどまることを憚り、大納言・藤原実秀(さねひで,のち小椋実秀)や堀川中納言らわずかな供をしたがえ東路をさして出発された。親王は琵琶湖をわたり、愛知川源流の小椋谷に安住の地を見つけ御所をもうけられた。その後は読経三昧の日々をすごしておられたが、ある日、親王は法華経巻の紐を引くと軸が回ることから轆轤を考案、また、池でくるくる回る樫の殻を見て木椀をつくることを思いつかれた。そして、御所周辺の杣人たちに轆轤の技術を伝授された。これが木地師のはじまりである。」

■愛知川沿岸の伝説
 びわ湖から愛知川沿いには、いまも数多くの親王伝説が残っている。
 都を逃れた惟喬親王は、琵琶湖の東の浜辺に上陸されたという。その地は「宮ヶ浜」(近江八幡市沖島町)と呼ばれるようになった。宮ヶ浜から一山越えた若宮神社(近江八幡市白王町)には惟喬親王が祀られ、「この地で手芸や細工を教えられた」との伝説をもつ。
 八木神社(愛荘町宮後)には、親王が旅の途中に立ち寄り奉納されたという神社の御染筆の額と馬の鞍がつたわっている。この地に杉苗八本を植えられたので「八木神社」とよぶようになったともいう。
  建部北町・小林家では「年末の慌ただしいとき親王がお泊まりになり正月準備ができなかった。いまも門松など正月飾りをしない習わしがつづいている」という。
 池田町にはつぎのような伝説がある。「親王が愛知川を渡ろうとして難儀しておられた。これを見た池田の村人たちが親王を背負い対岸にお渡しした。そのとき、川の瀬から雁が飛び立った。これをご覧になった親王は自分を助けてくれた村人たちに『雁瀬』の姓を与えられた。」
 妹町・密谷家には、当家で親王が弁当を使われたとの伝説がある。箸を地面に突き立てられたところ、椿の木に育ったという。
 上中野町・八幡神社では、親王が植えられた松を村人が「霊松」として崇め、これが神社のおこりであるとつたえる。
 親王は、小椋谷に入る前に川のほとりに祭殿をもうけしばらくご滞留になった。歳苗神社(永源寺山上町)には、「親王の祭殿の場が神社創祀の起こり」との社伝がある。
 長寿寺(池之脇町)には、近年まで親王駒繋ぎの松があった。
 政所町は、小椋太政大臣実秀(藤原実秀)の居所であったことから「政所」と呼ばれるようになったとつたえ、同町の八幡神社には親王木像や親王塚が現存する。
 このほか、日枝神社(黄和田町)は親王によって創祀されたとし、春日神社(杠葉尾町)の社伝にも親王が参詣された旨が記されている。

■大君ヶ畑、笹路、山女原の伝説
 多賀町大君ヶ畑にも、惟喬親王隠棲の伝説がある。大君ヶ畑は、かつて「王子ヶ畑」ともいい、氏神の白山神社には親王ご自作という木地椀がつたわる。多賀町大杉には親王の馬駈馬場・的場・駒繋ぎ石などがのこり、河内の中村・藤本の両家は親王家臣の末裔であるともつたえている。
 甲賀市山内町笹路(そそろ)集落にも、惟喬親王の伝説がのこっている。年の暮れ、藤原氏の追っ手から逃がれてこられた親王を匿ったため正月準備ができず、いらい笹路では門松などの正月飾りをしないのだという。
 笹路の奥、山女原(あけんばら)集落には、筒井姓を名乗る数戸だけでお祀りをする「惟喬法親王社」がある。筒井家の先祖は惟喬親王家臣の末裔で、小椋谷から移り住み、かつては木地職を生業にしていたという。


大皇器祖神社(おおきみきじそじんじゃ)(東近江市君ヶ畑町)
■京都大原の惟喬親王伝説

 大原三千院(京都市左京区)にちかい小野山の麓に、惟喬親王墓と小野御霊社がひっそり佇んでいる。小野御霊社由緒や地元・大原の古文書につたわる親王伝承は、およそつぎのとおりである。
 「弟君・惟仁親王が清和天皇として即位された翌貞観元年(八五九)、親王は御年十六歳で白馬に乗り都の御殿を去り東に向かわれた。藤原(小椋)実秀・堀川中納言らがお供をし、下八木・春日神社を経て蛭谷・君ヶ畑に御所をさだめられた。小椋谷に閑居されること九年、轆轤の技術を地元の民に教えておられたが、貞観九年(八六七)に親王は鈴鹿・小椋谷から大原の地に宮居を遷された。その後、出家され素覚と称え、元慶三年(八九七)に京北・岩屋畑(現・京都市北区雲ヶ畑町)に移られた。親王はこの地でご発病、法華経をとなえつつ薨去された。ご遺言で亡骸は大原に戻り御殿裏に葬られ五輪塔が建てられた。小椋太政大臣実秀と堀川中納言の二人は、親王の二十三回忌をつとめたのち親王のご事績を守護するため小椋谷にもどった。その他の従者は苗字を久保と改め、大原で杓子や木椀をつくる業を受けついだ。」

■京北・雲ヶ畑と 大森東の伝説
 京北・雲ヶ畑集落の最奥には惟喬神社が祀られ、つぎのような親王伝説をもつ。
 「親王は乳母の招きで岩屋畑(現・雲ヶ畑町)の地に来られた。出家後は耕雲入道ととなえられ、耕雲殿をいとなまれた。それが現在の高雲寺で、親王が書写された大般若経最初の一巻がつたわっている。親王は間もなく病をえて、余命少ないと観念された。そして、『この地は内裏の上流であり墓所とするには失礼である。山向こうに移りたい』とおっしゃった。村人たちと別れを惜しみつつ、岩屋山を越え東河内(京都市北区大森東町)に向かわれた。」
 大森東町にもつぎの話がつたわっている。
 「岩屋畑から東河内(大森東町)に到着された惟喬親王は、庵室でご休息になり『ああ、安楽やな』とおっしゃった。それで、庵室は安楽寺(現存)と名付けられた。ご養生もかなわず、親王は元慶三年(八七九)二月に亡くなられた。この訃報は鈴鹿・小椋谷にも届けられ小椋実秀・堀川中納言らが涙ながらに東河内に集まった。そして、東河内で葬送の儀を執り行い、ご遺体は大原・御殿の裏山に埋葬することになった。」

■三重県と奈良県の伝説
 三重県度会郡大紀町崎には、親王をご祭神とし崎集落の小倉氏だけを氏子とする大皇(だいこう)神社がある。
 「親王は京の小野郷にいることを憚り、家臣を連れ近江・小椋谷に移られた。その後、良材をもとめ鈴鹿・治田峠を越え員弁郡を経て当地に来られた。親王は当地にて宮居を営まれていたが、病を得て京に戻られお亡くなりになった。その後、家臣の一人、小椋助之丞がこの地に移住、木地職を営むとともに親王のご分霊をお祀りした。これが大皇神社で、小椋助之丞の子孫が小倉氏を名乗った。」
 吉野の山々に囲まれた奈良県吉野郡川上村高原(たかはら)にも親王伝説がある。
 「藤原氏の追っ手を避け、親王は吉野山中の川上村高原(たかはら)まで逃れてこられた。その後、近江・小椋谷に移られ九年を過ごされたが、ふたたび高原に戻り薨去された。高原に残る木地ヶ森の地名は祖先が木地職を営んでいた名残であり、親王の使われた『御井戸』や腰を掛けられた『公方石』が現存、お墓の上に祀られたという現・氏神神社のご祭神は惟喬親王である。」

■全国版の大型情報
 轆轤を使い木地物をつくる技術は弥生期に存在し、奈良時代にはすでに職業として成立していたという。また、惟喬親王の諸国行脚伝説を立証することは、不可能である。
 惟喬親王を木地師の祖とする伝説は、蛭谷・帰雲庵の住僧や筒井神社の神主を務めていた大岩助左衛門により近世初頭に初めて語られたものらしい。しかし、悲運の皇子、親王への民衆の同情は、伝説・伝承を歴史的事実とする認識を生み信仰にまで高めた。「親王伝説」はまた、全国の木地師に誇りを与え、小椋谷を「わがふるさと」とする強力な木地師グループの絆を形成する原動力ともなった。惟喬親王伝説こそは、東近江から発信された「超大型情報」であり、「歴史的遺産」であるといっても過言ではない。

(八日市郷土文化研究会長)

宇芸の里2016

2016.08.04.Thu.10:00
昨年、宇芸の里を取材中に、一人で土木工事をしている保存会の人と出会った。
カテゴリ 甘楽郡散策にup済。
「古代蓮の池をつくるんだよ。」
真冬に、一人で、もくもくと土木仕事をしている姿に感動した。
この里を愛するゆえの無償の労働だ。
この里に関する文献も私に紹介してくれた。
その保存会の人の苦労が実り、古代蓮の池が完成し、美しい蓮が、風に揺れていた。
もう一度 会って、どうしても教えてほしいことがある。
文献にある石「牛頭中天王」をどうしても見たいのだ。
これは、地元の人で、且つ、古代史好きの人でなければ、分からないだろう。
電話番号を教えてもらったのだが、スマホに変えたら、わからなくなってしまった。
猛暑が過ぎたら、職場を教えて頂いたので、訪ねていくつもりだ。


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