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さきたま古墳群

2016.01.29.Fri.15:24
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皆さん、埼玉県は歴史好きにはロマンを感じる地ですね。今日も引き続き、埼玉県の渡来人のお話をしたいと思います。

埼玉県行田市埼玉(ぎょうだしさきたま)には、大型古墳群の「さきたま古墳群」があります。現在は大型古墳が9基現存しておりますが、かつては40基以上あったと言われており、その大半は湿地の埋め立てや田畑の開墾、そして戦等で破壊されてしまいました。

さて、この古墳群で一番有名なのは、日本最大の円墳である「丸墓山古墳(まるはかやまこふん)」です。直径が108m、高さ18.9mもある驚くほど巨大な古墳ですが、いまだかつて正式な調査が行われていないので、埋葬部分や副葬品がどこにあるかはわかっておりません。この古墳、大きさのみならず歴史的に有名になった古墳でもあるんです。野村萬斎主演の映画「のぼうの城」で上地祐輔演じる「石田三成(いしだみつなり)」が「忍城(おしじょう)」の水攻めで陣取ったうず高い古墳が、この丸墓山古墳なんです。この上からの眺めは2km離れた忍城を一望できるほどで、当時水攻めで築いた堤防(石田堤)の一部は、今でもこの古墳に通づる桜並木道として残っております。ちなみに自分は、古墳に登る事は死者への冒涜と思っておりますので登っておりません。

さてこの丸墓山古墳から200mほど西に行った所に「将軍山古墳(しょうぐんやまこふん)」があります。この古墳は1894年、近隣住民が古墳の石を庭石に使おうと掘っていたら、石室が見つかり、かなり貴重な出土品が確認されました。それは馬冑(馬の兜)と蛇行鉄器(鞍の後ろに付ける、旗立て)です。これらは高句麗の古墳の壁画にみられる馬具で、日本でも出土例がきわめて少なく、馬冑は3例、蛇行鉄器は9例しかなく、さらに古墳の形式が新羅地方によく見られる横穴形式で、朝鮮半島との縁が濃厚であり、古墳の被葬者は渡来人の武人(軍人)ではないかと言われております。明治に入りこの古墳も、湿地の埋め立てに使われてしまい、原形をとどめないほど崩れ落ちましたが、1996年に復旧作業に取り掛かり、現在は埋葬当時の古墳内部の様子が見られる展示館になっております。

同じさきたま古墳群の中に「稲荷山古墳(いなりやまこふん)」があります。この古墳からは鉄剣が出土し、X線で調べてみると文字が刻まれているのが確認できました。この鉄剣は現在、国宝に指定され現物は隣接する「埼玉県立さきたま史跡の博物館」で見る事が出来ます。色々と調べてみるとここもやはり、豪族となった渡来人の古墳だと思われます。

実はこの古墳群、埼玉県の県名の語源になっている事をご存知ですか?ここに埋葬されている被葬者の魂を「人に幸福を与える神の霊魂」と言う意味で、「幸御魂(さきのみたま)」と言いました。「幸」の字は古代「幸ふ(さきはふ)」と読みました。地名の変化を追ってみると「幸御魂(さきみたま)」→「幸御(さきたま)」→「前玉(さきたま)」→「埼玉(さきたま)」→「埼玉(さいたま)」となって行きました。つまり、埼玉県の県名の語源は、渡来人の魂だったんですね。

今日の埼玉県名語源の話はいかがでしたか?
まだまだ引き続き、埼玉の渡来人話をして行こうと思います。
ではまた次回
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武蔵國幡羅郡(むさしのくにはたらのこおり)

2016.01.27.Wed.11:19
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金浩さん

皆さん、まだまだ埼玉には渡来人の痕跡が沢山あります。秩父から西に下った所に、埼玉県深谷市がございます。この一帯にはかつて、渡来人が入植した痕跡があります。今日も引き続き埼玉県にまつわる渡来人のお話、深谷市一帯の事をごお話したいと思います。

さて、深谷市東部と熊谷市にまたがる一帯には、大小様々な古墳と歴史ある神社が数多くあり、古代この一帯を「武蔵國幡羅郡(むさしのくにはたらのこおり)」と呼んでおりました。「武蔵國」は埼玉県、東京都、神奈川県の一部にまたがる古代国名です。幡羅郡は諸説色々ありますが、加羅系新羅渡来人、秦氏(はたうじ)氏族が多く住んだことから名が付いたと言われております。郡設立年についてははっきりしておりませんが、武蔵國が設立する以前から、ここ幡羅郡には秦氏が入植していたと言われております。深谷市の「原郷(秦郷)」や「唐沢川(加羅沢川)」、「幡羅(ハタラ)町」、熊谷市の「上奈良」、「下奈良」、そして「奈良神社」等、各地名の語源に渡来の痕跡がある事は確かです。

さて、幡羅郡のお隣、現在の深谷市西部と大里郡寄居町一帯は古代、「武蔵國榛沢郡(むさしのくにはんざわのこおり)」と呼ばれておりました。実はここも語源が加羅系渡来人、秦氏ではないかと言われております。

幡羅郡、榛沢郡のお隣、深谷市南部、熊谷市、大里郡寄居町、比企郡小川町一帯を、古代「武蔵國男衾郡(むさしのくにおぶすまのこおり)」と呼んでおりました。男衾郡の中心部は、現在の関越自動車道花園インター西側の、現深谷市本田と言う所ではないかと言われております。この本田にある凸版印刷深谷工場付近はかつて、「百済木郷(くだらぎごう)」と呼ばれておりました。ここの工場敷地内には百済木遺跡があり、そこから住居跡、集落跡が見つかり、男衾を治めていた郡司(郡長)が住んでいたのではないかと言われております。百済木郷に住んでいた郡司の名は、「壬生吉士福正(いぶのきしふくしょう)」と言う人で、名前にある「吉士」とは百済や新羅の階級を表す言葉であり、地名を見てもお分かりの通り百済の渡来人なんです。

この壬生吉士福正は、莫大な財産を持っていたと言われており、古文書を読むとその事がわかる様な記録が残っておりました。郡司になれば一生涯税金が免除される厚遇にあやかりますが、家族は対象外でした。そこで壬生吉士福正は、自分の二人の息子の一生涯分の税金を一括でまとめ払いした記録が残っております。また東京都国分寺市には古代、国営の寺院「国分寺」があり、そこには仏舎利の「七重の塔」がありましたが、落雷により焼失してしまいました。そこで壬生吉士福正は私費を投じて再建を図り、仏教の習いに従い本来あるべき敷地の中心部に位置を変えて、七重の塔を新たに建てたとの記録があります。現在の金額にして十数億の金額です。壬生吉士福正の懐の太さと、財力が半端ではなかったことがわかりますね。

さて、百済木遺跡(凸版印刷深谷工場)北側に、鹿島古墳群があります。荒川の河川沿い1キロにわたって、56基の円墳が確認されており、壬生吉士福正一族の墓所だと言われております。現在は男衾と言う地名は残っておらず、駅名や施設名でしか確認できませんが、男衾郵便局近辺の地名を「牟礼(むれ)」と言います。これは古代朝鮮半島の言葉で、「村、集落」を意味し、地名の語源に渡来人の名残を現在に残しております。男衾郡の入植渡来人達は、焼物の技術が長けており、瓦や須恵器を焼いた窯跡が4カ所も見つかっており、国分寺の瓦もここで焼いたと言われております。

さて、今日の埼玉深谷地方のお話、いかがでしたでしょうか?
まだまだ続く埼玉渡来人話、次回もこうご期待!!
ではまた次回・・・

※春になったら、地図を片手に旧百済木郷・牟礼を歩いてみたい

多胡碑について

2016.01.22.Fri.13:56
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金浩さん


皆さん、前回お話しした富岡市の隣町に、吉井町と言う所があります。上信越自動車道を使ってもほんの10km程度の距離です。この吉井町は富岡市同様、渡来人にまつわる街でもあり、大変貴重な史跡がある所でも有名です。今日はこの、吉井町お話をしたいと思います。

この吉井町は、2009年に高崎市編入されましたが、それ以前は多野郡吉井町(たのぐんよしいちょう)と言う地名でした。この吉井町に辛科神社(からしなじんじゃ)が鎮座しておりますが、大変歴史が古く西暦701年頃に創建されたと言われております。
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辛科神社
この神社の境内には大変興味深い石碑のレプリカがあります。この石碑の実物は同じ吉井町の少し離れた所にあり、碑の名前を「多胡碑(たごひ)」と言います。

さて、この多胡碑には6行80文字が刻まれておりますが、碑文の内容は要約すると次のような事が書かれております。「朝廷の命令により、上野國片岡郡、緑野郡、甘良郡から三百戸を分割して新たに郡をつくり、羊を統治者とする。郡名を多胡郡とする。」と言った内容です。
ここに書かれている「羊」は名古屋の「羊神社」を建てた、新羅渡来人「多胡羊太夫(たごひつじだゆう)」の事ですね。
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名古屋の羊神社
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安中市中野谷の羊神社
余談ですが、何故羊太夫と言う名前なのかと言いますと、生まれが未年の未の日だからだそうです。そして多野郡吉井町の「多野郡」はこの「多胡郡」が転訛した地名で、渡来人(胡)が多く住んだと言う意味でこの地を「多胡郡」としたそうです。

さてこの多胡碑、どこがすごいかと申しますと、国指定特別史跡でありいわゆる国宝扱いであり、日本で最も古い石碑の一つとされています。またこの碑文は「続日本紀」にも書かれており、どれだけ重要かと言う事がわかりますね。そんな重要な石碑に刻まれた内容が、渡来人の事柄って考えるとすごい話ですよね。

さて、甘楽郡(かんらぐん)には元々、韓級(からしな)と言う郷がありました。特に加羅渡来人が多く住んだので韓級郷と呼ばれ、多胡郡設立の際に甘楽郡から分割され多胡郡に編入されました。この韓級郷に鎮座していた神社が「韓級神社(からしなじんじゃ)」で、冒頭で述べた「辛科神社(からしなじんじゃ)」の事なんです。加羅系新羅渡来人が祀った神社なんですね。祭神を見ても一目瞭然、新羅渡来神の速須佐之男命(すさのおのみこと)と、その息子である五十猛命(いそたけるのみこと)が祀ってあります。

今日のお話をまとめると、多胡郡 → 多野郡吉井町 → 高崎市吉井町で、韓級神社→ 辛科神社になったんですね。そしてその郡司が多胡羊太夫で、その事を刻んだ石碑が多胡碑と言う事です。分かりになりましたでしょうか?群馬県にはまだまだ渡来人ゆかりの地名がございますが、それはまた、お話しする機会を設けて行いたいと思います。次回は、羊太夫が埼玉県で大変活躍したお話をしたいと思います。

群馬と言ったらだるま弁当に焼きまんじゅうですね。
アツアツの焼きまんじゅうの味噌ダレは、酒の肴やおやつにピッタリ!!
今宵は芋焼酎のお湯割りに、アツアツの焼きまんじゅうでもいただこうかな?
ではまた次回・・・

貫前神社の古代の神

2016.01.20.Wed.13:11
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金浩さん
地図-群馬県富岡市-2006
群馬県富岡市
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富岡製紙場

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皆さん、群馬県富岡市の富岡製糸場が世界遺産に登録されたのはご存知ですよね。富岡市は群馬県の南西部に位置し、古くから養蚕織物の町として有名で、近代は生糸生産が盛んでありました。今日はこの、富岡市にまつわる語源のお話をしたいと思います。

富岡市を中心として甘楽郡甘楽町と下仁田町一帯は古代、「上野國甘楽郡(かみつけのくにかんらのこおり)」と言う地名でした。1954年以前の富岡市は「甘楽郡富岡町(かんらぐんとみおかちょう)」と呼ばれ、1954年に周辺の村と合併し富岡市となり、2006年には旧富岡市と旧甘楽郡の一部が合併し、現在の新しい富岡市になりました。

現在、「上野國(群馬県)一之宮」として、富岡市には「一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)」が鎮座しております。この神社には興味深い神様が祀られております。祭神は、「経津主神(ふつぬしのかみ)」と「比売大神(ひめおおかみ)」の二柱ですが、「経津主神(ふつぬしのかみ)」は後から合祀された祭神で、元々は比売大神だけが祀られておりました。興味深い神様はこの比売大神の事ですが、読んで字の如く名前のない比売(姫)とだけ呼ばれる女神なんです。いったいこの比売大神はどんな神様なんでしょう?

神社で一般的に一之宮とは、その地域で一番くらいの高い神社の事を言いますが、ここ貫前神社は元々、上野國(群馬県)一之宮ではなく二之宮(にのみや:2番目)でありました。前橋市にある「赤城神社(あかぎじんじゃ)」が元々一之宮でしたが、なぜこの神社が一之宮になったのかと言いますと、昔、朝廷に絹の織物を税の代わりに献上しなくてはならなかったのですが、赤城神社は物資が不足していたので、貫前神社の比売大神にお願いして代わりに献上してもらいました。その絹の織物の出来があまりにも素晴らしく、貫前神社が一之宮に格上げされたそうです。実はここ甘楽郡(富岡市一帯)は織物の産地であり、この比売大神は織物の女神様だったんです。

さらにこの「甘楽郡(かんらぐん)」は元々「甘良郡(からぐん)」と呼ばれ、さらにさかのぼれば「韓良郡」と言う字を使っておりました。ここの民は養蚕織物、麻の織物、製鉄、焼物技術が優れており、特に養蚕織物と製鉄は群を抜いていたそうです。もうお分かりですね。ここの民は朝鮮半島南部の古代国、加羅の渡来人が開拓した地なので「韓良郡」と言う地名になりました。つまり貫前神社の比売大神は、加羅(伽耶)の渡来人が祀った織物の女神様で、この渡来人達の織物の技術が長けていたので、二之宮だった貫前神社が、一之宮に格上げされたんですね。ちなみに、二之宮赤城神社も「からやしろ(韓社)」と呼ばれ、加羅(伽耶)渡来人が祀った神社だそうです。

話を整理すると、韓良郡 → 甘良郡 → 甘楽郡 → 富岡市、甘楽郡甘楽町、甘楽郡下仁田町になるんですね。そして冒頭に紹介した世界遺産の「富岡製糸場」、そこには伽羅の渡来人がもたらした織物技術の歴史が根底にある、つまり製糸の技術の元祖は渡来人なんですね。一説によるとここの渡来人は、秦氏の氏族、つまり加羅系新羅の渡来人だとも言われておりますが、その続きはまた次回にしたいと思います。最後に、富岡市を流れる河川名を「鏑川(かぶらがわ)」と言いますが、これも「韓(から)」が語源だと言われております。

群馬の冬は空っ風(山からの吹きおろし)が強く冷え込みます。今宵は下仁田ネギのネギ焼を肴に、芋焼酎のお湯割りで身体を温めたいと思います。
ではまた次回・・・

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一之宮 貫前神社

霧島市の伽耶国

2016.01.19.Tue.13:59
言葉の語源
皆さん、鹿児島県と宮崎県の県境にある、霧島連山をご存知でしょうか?坂本竜馬が新婚旅行で登山した山、そして数年前に噴火した「新燃岳(しんもえだけ)」と言えばピンとくるかもしれませんね。今日はこの、霧島連山周辺の渡来人のお話をしたいと思います。
さて、今からさかのぼる事50年ほど前に、霧島山麓の村の小学校で「学校給食拒否」と言う騒動が起き、地元新聞に大きく取り上げられた事がありました。給食に出された鶏肉が問題で、この騒動をきっかけに「カヤカベ教」と言う密教が明らかになりました。
では、「カヤカベ教」とは一体どんな密教なのでしょうか?実は、浄土真宗の一派で隠れキリシタンの様に過去300年もの間弾圧されてきた歴史があったので、独自に山岳信仰を取り入れて隠れ蓑にして、長年の間隠れて信仰されていました。信者は鶏肉、牛肉、もちろん牛乳を口にせず、文字ではなく口々に教えや念仏を広めて行きました。その教徒達が「カヤカベとは伽耶来部で、霧島神宮と鹿児島神宮は元々、我々の祖先が造営して祀ったお社だったが、大和との戦に敗れて彼等に盗まれた。だから一向宗とは一切関係がない」と言っていたそうです。また霧島市の牧園町には、「加羅国から戦乱を逃れた王族がこの霧島に住み着いたが、流浪生活が厳しく、王族の王女が加羅国に帰りたいと泣き崩れたので、侍女達があの高い山に登ると故国加羅が見えると女王を励ました。それが元となり、霧島連山で一番高い山を『加羅国岳:からくにだけ(現韓国岳)』と呼ぶ様になった」との伝承がありました。これらの話もカヤカベの信徒が代々伝えたものであります。
そう言えば昔、大和朝廷の命により大分県の宇佐から5000人もの新羅渡来人を霧島に移住させ、「隼人族(はやとぞく)」の征伐にあたらせたと言う記録が残っております。この隼人族は熊襲と同族で高句麗渡来人一派と言われておりました。霧島神宮も鹿児島神宮も元は隼人族の祀った神社だと言われているので、カヤカベ教徒の伝承を読むと、隼人族は高句麗渡来人ではなく加羅国渡来人になるんですね。確かに霧島神宮脇には現在も「東多羅」と言う地名が残っており、霧島市牧園町には「安楽(あんらく)」と言う地名が残っております。さらに霧島市横川町には「安良岳(やすらだけ)」と言う山や、「安良神社(やすらじんじゃ)」が鎮座しております。また鹿児島神宮本殿横には「荒姫(アラヒメ)」を祀る社があります。安楽や安良、荒姫も伽耶諸国の「安羅(阿羅)」と同音で類似している所から、安羅由来ではないかと思われます。カヤカベ教にまつわる土地には、こんなに安羅に由来する地名や神様、伝説があるんですね。
そうそう、安良神社にも面白い伝説があるんです。ここには「安良姫命(やすらひめのみこと)」が祭神として祀られております。その昔、安良姫が王の召し物を都の川で洗濯中に、シロサギサギが飛んできてあまりに綺麗なので見とれてしまったら、うっかりそれを川に流してしまい紛失してしまいます。罰を受け殺されてしまうと思った姫は、一人この横川町まで逃れてきて地元の人にかくまわれたと言う伝説があります。女性一人で関西から九州南部まで逃れて来るのは、はいくら考えても無理な事であり、元々この地は隼人の地なので、その伝説は偽りで、おそらく安羅から逃れてきたお姫様ではないかとおもわれます。この神社も安羅(加羅国)渡来人が祀った神社なんですね。
いかがでしたか、今日の語源話。
鹿児島県霧島市の伽耶国にまつわる密教と伝説、地名や神様といったお話をご理解いただけたでしょうか?
では、また次回・・・

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白木神社について

2016.01.19.Tue.13:40
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皆さん、九州北部には4県にまたがる有明海があります。広大な干潟、そして海苔の一大産地、ムツゴロウなどでも有名ですね。諫早湾干拓で問題になっている水門もこの有明海の一部なんです。そんな有明海は、古代より渡来人の往来が盛んに行われてきました。その中でも今日は、熊本県有明海沿岸のお話をしたいと思います。

熊本県北部の有明海沿岸に玉名郡玉東町と言う所があります。そこに小さいながらも立派な楼門がある歴史深い神社があります。社名は「山北八幡宮」と言います。由来については諸説ありますが、和銅2年(西暦702年)創建で、由緒正しき神社なんです。

実はこの神社、一説には古墳の上にあり楼門から拝殿までの敷石は、古墳の石を使っていると言われております。また一の鳥居から楼門までの間の参道には、小さな古墳があり、これは素戔嗚尊(すさのおのみこと)の古墳だと言われておりました。素戔嗚尊は牛頭天王(ごずてんのう)とも言われ、言わずと知れた日本神話のヤマタノオロチに出てくる、新羅から来た伝説の人物ですね。

さて、これだけでも十分渡来人の匂いがしますが、実はこの神社、元々「白木神社・白木宮・白木八幡宮」と呼ばれておりました。また地名も昔は白木村(現在は上白木と白木に分割)と呼ばれており、近くには白木川、神社の裏山も「白木山」と言います。また神社前には牛頭山川、牛頭田等があり、これらの地名の由来は「新羅」と「素戔嗚尊」から来ているのではないかと言われております。つまり、この白木の地一帯は新羅渡来人が治めていたと言う事ですね。

それを物語る様な証拠も、この近くにありました。この山北八幡宮から3km程北には「熊野座神社」が鎮座しておりますが、そこは元々稲佐寺と呼ばれており現在も境内に廃寺跡があります。実はそこから新羅様式の瓦等が出土しているんです。つまり稲佐寺は新羅形式のお寺だったのではないかと言われております。またこの神社の祭神は素戔嗚尊を祀っており、これらを総合すると、この玉名郡玉東町にはその昔、新羅渡来人が治めていたと言う事がわかりますね。

実は福岡県から始まり熊本県そして鹿児島県にわたり白木と言う地名や神社が数多くあり、新羅渡来人の痕跡がありました。また高句麗の渡来人、伽耶の渡来人、そして百済の渡来人の痕跡も数多く残っております。友人の創建はこう言った幾重にも重なった渡来人の痕跡や歴史を、「歴史のミルフィーユ」と言っておりました。まさに、この九州の渡来人の痕跡は、「歴史のミルフィーユ」ですね。自分は長崎県民らしく「歴史のトルコライス」と呼びたい気分です。まだまだ未発見、未発掘の古墳があるので、もう「歴史のちゃんぽん・皿うどん」と言った方があてはまるかな?でも、それらが解明できればもっと面白いでしょうね。

皆様のお近くにもきっと、こう言った新羅にまつわる神社や地名があると思うので、調べてみたり散策してみたりすると楽しいですよ。
今日の語源話、いかがでしたか?
熊本と言えば馬刺し。馬刺し、桜ユッケ、桜レバ刺し、桜肉の焼肉を肴に、芋焼酎をあおり、〆に山鹿の馬刺重でもいただきたいですね。


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古墳の石を使ったと言われる参道
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かつては素戔嗚尊(すさのおのみこと:日本神話の新羅人)の古墳と言われておりました。

佐賀県佐賀市唐人町にまつわる話②

2016.01.16.Sat.17:00
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佐賀県佐賀市唐人町にまつわる話②

さてさて、前回お話しした佐賀県佐賀市の唐人町。
ここには記録によりますと、文禄・慶長の役(1592〜1598)で鍋島藩に連行されてきた180余人もの朝鮮人が住んでいたとされております。
住人は、陶工、行李工、飴工、織物工、医師、学者、etc…さまざまなすぐれた職人ばかりだったそうです。
その中でも、後の日本においての染物革命の担い手となった医師がおりました。
その名は李九山といます。
この李九山、日本名を九山道清(くやまどうせい)と名乗り、後に九山庄左衛門と改名します。
元々医術の心得があった李九山、壬辰倭乱(文禄・慶長の役1592〜1598)の時に鍋島直茂に医師として捕らわれて佐賀に連れてこられます。
そこで前回紹介した李宋歓の計らいにより、佐賀の唐人町に住むこととなり、李九山は唐人町で製薬業につき、薬房(薬屋さん)を営みます。
元々手先の器用だった李九山は、染物の技術も持っており、製薬業の傍ら染物業も始めました。
この染物は「道清更紗(どうせいさらさ)」よばれるようになります。
この道清更紗は、木版と紙型を使い布に印刷するような形式で染め抜く手法で、後に「鍋島更紗」と呼ばれ、藩主により保護奨励されて行きます。
李九山の鍋島更紗は御用品(藩主専用の品)として扱われ、大名の贈答品や幕府献上品も手掛けたと言われております。
ちなみに現在の着物の形態が確立されたのは、豊臣秀吉によってだと言われており、江戸時代にその着物が着られるようになった陰には、この鍋島更紗の技術の影響を受けた染物があったからだと言われております。
全国的染物革命を起こし、その名をはせた鍋島更紗、その技術は門外不出の一子相伝でしたが、途中代が途絶えてしまい親族の手により受け継がれていきますが、大正初期にとうとうその技術は途絶えてしまします。
現在は、偶然発見された鍋島更紗秘伝書により、佐賀県鹿島市の方がまた再興させております。
李九山は没後、李宋歓同じ、佐賀市唐人町の鏡円寺に安置され、今も一族と一緒に眠っております。

佐賀県佐賀市唐人町にまつわる話①

2016.01.16.Sat.16:52
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佐賀県佐賀市唐人町にまつわる話①

JR佐賀駅を出て、目抜き通りを県庁の方に少し下って行くと、そこには唐人町と言う町があります。
この町名には、とある朝鮮人商人が深くかかわっている事をご存知でしょうか?
その人の名は、李宋歓。
生まれは現在の、朝鮮民主主義人民共和国、咸鏡北道吉州郡だと言われております。

両班の家に生まれた李宋歓は、天正15年(1587年)家族と共に舟遊びを楽しんでいる最中、突然の暴風雨に見舞われます。
その時家族はすべて溺れ死に、舟は李宋歓を乗せて数日間漂流し、現在の北九州黒崎に漂着します。
その後、大宰府参詣に立ち寄った肥前鍋島藩重臣龍造寺家晴と、その家老成富兵庫茂安に出会い佐賀に連れてこられ、二人の仲介で鍋島藩藩主鍋島直茂と面会します。
その時日本は空前の儒教ブームに沸き、両班出の李宋歓を学問に長け朱子学にも明るいと思われ、鍋島直茂から召し抱えられることとなります。

李宋歓は鍋島藩主に仕えた数年後、再び祖国朝鮮の地を踏む機会を得ます。
しかしそれは喜ばしいことではなく、文禄・慶長の役(1592〜1598)、つまり豊臣秀吉による朝鮮出兵の際に、鍋島藩の通訳としての帰国でした。
鍋島藩はこの時多くの陶工や技術者、儒学者等を連行し日本に連れてきました。
この時に多くの役割を果たしたと、1599年に鍋島直茂は李宋歓に対し、名字帯刀、十人扶持と城下にわずかながらの領地を与え、さらに海外貿易の永代御用達商の免状を与えます。
鍋島直茂はその地を、李宋歓の故郷にちなんで唐人町としました。
李宋歓はこの唐人町に、連れて来られた朝鮮人技術者達を住まわせます。
そして商いでは、日本では珍しい繊維品、陶磁器類、金物、荒物などを多く輸入し、それを扱う商人がこの町に集まり唐人町は栄えていったとされております。

李宋歓は利敵行為をしたため、祖国には二度と帰国ができず、祖国を想い自宅内に石碑を建てて毎日祖国の方に向かって拝んだそうです。
この石碑は唐人塚と呼ばれ現在も残っており、唐人神社の祖神として今でも祀られております。
李宋歓の墓は、唐人町にある鏡円寺の墓地内にあり、一族の墓に囲まれながら今も安らかに眠っております。

鶴見の東漸寺へ

2016.01.15.Fri.11:03
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李創建さんは金浩さんと一緒です ― 場所: 鶴見駅
2015年12月16日 7:43 ·
267.続・これ結構知られていない日本と朝鮮の歴史
【鶴見に金浩とプチ散策】
たまたま仕事で来たキンホと、朝5時に出発して鶴見の『東漸寺:とうざんじ』へ行きました。朝6時に門を叩いて入場です。真実を確かめる為の早朝散策です。
(☆Д☆)キラリーン♪
さて、ここには『大川常吉』警察署長さんのお墓と、石碑が立っています。今から92年前の1923年に関東大震災がありました。皆さんもご存知のようにこの時「朝鮮人が井戸に毒をまいた」「朝鮮人が火をつけた」「朝鮮人が暴れ暴動化している」という、ありもしない悪いデマが流され、虐殺されました。しかし、この時、鶴見警察署長を務めていた大川さんは、デマで逃げる朝鮮人をかくまうのです。
大震災から次の日、自警団が、4人の朝鮮人と井戸水の入ったビンを出し「こいつらが毒を井戸に入れた」と言うと、大川警察署長は「それなら諸君らの前で飲んで見せよう」と飲み、納得させ帰らせました。次の日はさらに緊迫状態になります。署長は多数の朝鮮人を鶴見署に保護します。そこへ約千人の群衆が鶴見警察署を囲み「朝鮮人を出せ!殺せ!」と暴動のようになりました。
この時、大川署長は「君らがそれほどいうことを聞かないなら是非もない。朝鮮人を殺す前にまず、この大川を殺せ!われわれ署員の腕の続く限りは、一人だって君たちの手に渡さない!」と一喝します。しかし暴動は治らず「もし朝鮮人が署から逃げたらどうする!」という問いに、署長は「その時は切腹して詫びる」と言い聞かせ、群衆は帰っていきました。
大川警察署長はこうして、朝鮮人220人、中国人70人、約300人の人を助けたのでした。現在、東漸寺には社会科見学の一環として地域の児童、生徒が訪れ、총련総聯の前身である『민전民戦:ミンジョン』時代に作られた石碑と、お墓を見学して行くそうです。
(o^-')b

※大変、残念なことだけど、日本人の大半はこの事件を知らないのではないでしょうか。

そこで当ブログは古代史ブログなのですが、どうしてもこの記事だけは、転写しなくてはと思いました。
このような残酷な事件を二度と起こさない為にも私達は真実を知らなくてはなりません。
そして歴史から学ばなくてはなりません。
学んだら、そこから教訓を引き出して、二度と同じ過ちを繰り返さないように工夫して後世に伝えなければなりません。

この国の支配者達は、また同じことをやろうとしています。

中国が
北朝鮮が
ISのテロが
といって脅威をあおります。
騙されないように気をつけましょう。


日本の中の朝鮮文化

2016.01.15.Fri.10:25
日本の中の朝鮮文化
講談社学術文庫

農耕文化期朝鮮の無文土器が出土した諸岡貴跡。
宇佐八幡宮をまつる渡来系の氏族―。
福岡・大分の各地に残る朝鮮文化の痕跡は、その地がかつて南部朝鮮と同一文化圏にあったことをあらためて実感させる。
真実の古代史像を求め、日本全国を踏査する歴史紀行第三弾は、“謎の渡来ルート”を追い、北部九州をゆく。

本書があつかった古代の北部九州は、従来から南部朝鮮とは「同一文化圏」の地であったといわれているが、そこは古代「日本文化発祥の地」でもあった。そこはなにより、日本文化の基調となっている弥生文化が最初に渡米した地にほかならなかったからである。――(「まえがき」より)
※この一冊と地図 そして金浩氏のナビで極上の古代史探検に出かけよう!