FC2ブログ

神武天皇陵とは何か①

2018.11.19.Mon.13:04
久しぶりに奈良へ
JR奈良駅のスーパーホテルに泊まり 奈良を歩き回ってきました。


今井町から藤原京跡を目指していたら 突然 大きな森林が出現!
何だろう と歩いていると 神武天皇陵とのこと
畝傍山の麓に 後世この様な天皇陵を作ったのだなと納得した。
広い道路沿いに歩いていたら やっと神武天皇陵に着いた。
この広大な敷地 長く続く自然林のような鬱蒼しとた森林
そうとうな人力と国家財政を費やして作ったものに違いない。
何の予備知識もなかったので、自宅に帰ってから、調べてみた。

「現在の宏荘な神殿と社殿は、昭和13年から同15年にかけで、「日本書紀」による紀元2600年を記念して行われた拡張整備事業の結果、造成されたものである。
このとき建国奉仕隊の名のもとに、近畿地方の中学生・女学生を中心に、全国から奉仕団が強制的に動員され、その数は7197団体、121万人の多数にのぼった。
この大事業のおわった翌年、日本は太平洋戦争に踏み込むことになる。
畝傍山のふもとをよぎる人はだれでも、この事実に思いを寄せてほしい。
「建国記念日」の名のもとに、2月21日の紀元節が復活して以来、このことは一層強く念じられる。」
 奈良 植木幸次郎著 岩波新書  亡父の愛蔵書より

神武天皇については、諸説ある。
そもそも 存在しなかった説
一地方の豪族に過ぎなった説
神武東征は、天皇制を権威づける為の後世による創作なのか?

この広大な天皇陵が何故 造営されたのか?
その歴史を遡って歩いてみたい。 

c9a1d2e302239e449c1e1550ff95b7d5.jpg
a9f94a0a.jpg
90ffa984-c6ad-4c49-ab2e-aadda941b4a1.jpg
スポンサーサイト



神武天皇陵とは何か②

2018.11.19.Mon.14:49
☆彡京都教会月報より転写
①天皇制とは
 洞村跡の現地学習から
 前日の雨でぬかるんでいた畝傍山。靴の汚れやズボンのすそを気にしながらの洞村跡の見学となる。

 奈良県樫原市にある畝傍山は、高さ199メートルの丘を少し大きくしただけのような小さな山である。
 今からおよそ70年前、そこにあった洞村という被差別部落が、麓の神武天皇陵を見下ろしているのは、畏れ多いと強制的に移転させられた。

 我々は70年前に思いをはせながら登っていったが、今は、うっ蒼とした雑木林が続くだけ。わずかに共同井戸や庭木のしゅろが残っているだけだった。
 天皇制の強権によって、長年住みなれた村を追われていった当時の被差別部落の人々の思いは、一体どんなものであったのだろう。

 我々日本人の心に深く住みついている 天皇制とは という問いを新たに投げかけてくれた。(奈良 A・S)

 

②洞付強制移転が問いかけるもの  A・S

「洞付強制移転」については、ご存じの方も多いと思われますが、簡単に概要を紹介しておきます。
 今からおよそ80年くらい前、大正天皇が即位して、奈良県の橿原にある神武天皇陵を訪れることになりました。神武天皇陵とは日本の初代天皇の墓で皇室が最も大切にしている御陵です。現在の平成天皇も即位のために来ているし、皇太子夫妻も結婚の報告のために訪れました。そのときの「雅子さまフィーバー」は記憶に新しいところです。

 この神武天皇陵を見下ろす位置に、洞という被差別部落があったのです。畝傍山の中腹に208戸の家があり、1000人ぐらいの人々が生活を営んでいました。ところが大正天皇の行幸をさかいにいろいろと世論が湧き起ってきました。神聖な神武天皇陵を、穢れ多き被差別部落が見下ろしているのは、何んと畏れ多いことか。神山である畝傍山に、部落民の死体をそれも土葬で埋めている。恐催(きょうく=おそれおののくこと)に堪えざることである、などと。そして、ついに洞部落は国家権力の強制によって、長年住みなれた地を追われていったのです。これが「洞村強制移転」といわれるできごとです。

 このできごとは、部落差別と天皇制の問題を論じるときに、よく引き合いに出されるものです。しかし、このできごとをただ天皇制の強権力とか暴虐という面だけで捉えていると、天皇制のかかえているもっと恐ろしい部分が見えてこないと思います。
 洞村の子孫の人たちは、現在、大久保町という所に住んでいます。私は家庭訪問やいろいろな機会で、家に上がらせてもらうことが多いのですが、部屋に昭和天皇、皇后の写真が飾ってある家がかなりの数ありました。
 雅子さまが神武陵を訪れたときも、この町から数人の人たちが一目見ようと出かけて行っています。被差別部落の人たちも「雅子さまフィーバー」に一役買っていたのです。
 国民一人ひとりの心に住みついている天皇や皇族に対する意識は、過去にこんな目に合わされた被差別部落の人たちにとっても例外ではないようです。
 戦後になり天皇は、神ではなくて、象徴としての存在になりました。戦前のように天皇の強権や暴虐は見られなくなりましたが、今は、もっと複雑で巧妙にからめとられた天皇制が存在しています。そして、それは日本中の一草一木にいたるまで息づいているといえるでしょう。解放運動家の松本治一郎は『貴あれば賎あり』という有名な言葉を残しております。われわれ人間が天皇制という聖なるものを紡ぎ出している限り、部落差別をも紡ぎ出しているのだといえるでしょう


8941125488.jpg
266pxHoravillage1855.jpg
img125841.gif
61wcuizkQ8L.jpg

神武天皇陵とは何か③

2018.11.19.Mon.15:25
洞(ほら)部落フィールドワーク報告

 「貴族あれば賤族(せんぞく)あり」――生まれながらに“尊い”とされる天皇のような特権層がいることで、生まれながらに“卑しい”とされる人々が作り出されているのではないでしょうか。
 民主主義の社会であるはずの日本に厳然として残る差別と身分制度。私たちは「神武天皇陵」のために強制移転させられた洞(ほら)部落を訪ね、それを目の当たりにしてきました。

詳しくは こちらへ

神武天皇陵とは何か④

2018.11.20.Tue.08:59
陵の所在地は平安時代ごろまでは知られていたようだが、その後分からなくなった。
江戸時代にいたって、徳川光圀の上申などにより、元禄年中に調査が行われ、古代の他の多くの天皇陵とともに、神武陵も改めて指定しなおされ修復が加えられた。
(この時、神武陵と指定されたのは四条村の福塚で現在の第2代綏靖天皇陵)
江戸時代中期以降、国学がさかんになり「古事記」がおもんぜられだすと、この時の指定に対する疑問がたかまってきた。
「古事記」には白檮の尾の上とあるのに、四条村の福塚のように畝傍山の山麓から五、六町も離れた平地にあるのでは、理屈あわない、というのである。
そこで重視されてくるのが、畝傍山の東北のふもとの大久保村ジブデン(神武田)にある塚と、これに隣接してさらに山よりにある洞村(ほらむら)の上方、畝傍山の中腹にある丸山と呼ばれる塚とである。
後者は本居宣長・蒲生君平・北浦定治らに支持されて有力であったが、川路精謨・谷森善臣らは強く前者をおし、結局これが文久3年(1863)に神武天皇陵にさだまった。
しかしもちろん、ここに神武天皇が葬られているというたしかな証拠はなにもない。
記録によると、塚というのは東西三間五尺・南北四間一尺(6.9m×7.5m)・高さ三尺五寸(1.06m)
ほどの、方形中高の土壇である。寺院の建物の基壇ではないかという説もある。

それはともかく、この小さな塚は文久3年に、費用一万五千余両をついやして、神武陵に姿をかえた。
明治以後、政府の手でさらに修復が加えられ、偉容をましたことはいうまでもない。
陵域も拡張され、明治初年には東西100メートル、南北200メートルであったが、現在の広さになった。天皇の尊厳をまもるために必要と考えられたのである。
直木孝次郎著 奈良 岩波新書より

DPjy7PTVQAE2UtZ1254.jpg
2252548677khgh.jpg

こちらへ

橿原・洞集落移転から100年 「強制的だった」

2020.03.27.Fri.11:26
奈良県)神武天皇陵見下ろす 橿原・洞集落移転から100年 「強制的だった」 部落解放同盟全国連の三宅さん研究成果、発表

戦前に行われた神武天皇陵や橿原神宮の拡張政策の一環として1919年から翌年にかけ、全戸の移転を余儀なくされた旧奈良県高市郡白橿村大字洞(ほら、現・橿原市の一地区)の歴史を掘り起こす部落解放同盟全国連合会大久保支部(準)=準は準備会の意=の三宅法雄さんが23日夜、「奈良・洞村の強制移転から100年~部落差別と天皇制について考える」と題して、大阪市北区扇町2丁目の市北区民センターで研究成果を発表した。

 自主的な献納だったとする説が流布されているのに対し、「天皇陵を見下ろすのは恐れ多い」として強制的に移転されたとみる三宅さんは、明治・大正期の文書や書簡、新聞記事、古老らへの聞き取りなどをもとに見解を述べた。約50人が参加し熱心に聞き入った。

 大阪府民らでつくる「世直し研究会」の第32回勉強会。三宅さんによると、畝傍山(198.5メートル)の北東側中腹にあった洞集落の全208戸、計1054人が立ち退いた。三宅さんは「ほうら」と昔ながらの呼び名で集落を語り、「部落民が神武陵を見下ろすのは恐れ多いと、現在の大久保町に引きずり下ろされた。私の(現在の)家は神武陵から直線にして100メートルの地点です」と自己紹介した。

 神武陵は1889年に位置が決定され、1898年拡張整備が始まった。1913年、後藤秀穂が著した「皇陵史稿」は「御陵に面して新平民の墓がある」と洞集落を非難している。4年後に奈良県が示した移転理由書の中には「神武御陵を眼下に見下ろす地位にありて恐懼(きょうく=たいそう深く恐れ入ること)に堪えざること」とある。三宅さんはこれら資料を参加者に渡して解説した。国内で洞集落の強制移転にまつわる論文第1号は立命館大学教授の鈴木良氏(故人)の著作という。

 当時、県が示した移転理由の中には、衛生上の住宅改善を必要とし、現状の土地では日当たりが悪く、地場産品の下駄表(げたおもて)の乾燥に困難とし、移転すれば生活が改善されることを示唆する。一方、三宅さんによると、移転先として選ばれた土地は、昔から「おおくぼ」と呼ばれ、その名の通り、雨が降ると水が集まりやすい低い窪地だ。洞の人々が引っ越してくることが決まると、土地に面した四条町と大久保町(いずれも橿原市)で反対の声が出て、2地区とも墓地の転入を拒否した。

 移転のための家屋の解体は1919年に始まり、人々は大八車に家の部材を積んで運び、全戸の移転は2021年1月、完了する。過酷な労役だったのか、移転の過程で生後1年以内の乳児8人を含む13人が死亡したという。自作農は3戸のみで、移転前の耕作地は村外地主の田畑が相当な比率を占めた。移転の補償金は全戸で26万5千円と、当初より増額されたが、耕した農地は献納された。

 この日の発表で、三宅さんは神武天皇陵が史実に基づかないことを繰り返し指摘した。強制移転にまつわる調査をする上で欠かせない問題になる。戦後まもない民主主義の高揚期には「洞領を吾々に返せ」と返還運動も起こった。

 人煙が絶えた集落跡には共同の井戸が残り、今も水が湧くという。三宅さんは年内にフィールドワークを計画している。「洞が移転した大久保町は現在、土地のかさ上げや排水などの治水工事が実施されているが、移転した当時は大変な苦労があったとお年寄りから聞いた」と100年前の人々の無念に思いをはせ、「この節目の年に語ることができてうれしく思います」と話した。

詳しくはこちらへ