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古代史の先生みぃ~つけた!

2016.01.13.Wed.12:29
日本の地図をジーと見ていると畑・波田・羽田・幡多という地名がよくある。
実はあて字で「秦」だったんじゃないかなといつも思う。
白洲正子さんの著作を読んでいたら、白洲さんが全く同じことを疑問に思っていたのには驚いた。
興味のある土地を歩き尽くした白洲さんの素直な疑問に共感・感動した。
ますます白洲正子に魅せられていった。

古代に秦氏が入植したであろう土地を古代を想像しながら歩くのが好きだ。

※以下はFacebookで知り合った金浩さんのタイムラインから転写いたしました。
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金浩さん

★言葉の語源


さてさて、前回は大分県宇佐市にある、宇佐神宮のお話をしました。
宇佐一帯の秦氏一族は、朝廷の命令により鹿児島県の大隅国(現霧島市)に移住をさせられますが、今日はそのお話とそれにまつわる語源話をしたいと思います。

秦氏一族(辛島氏)主な移住の理由は、隼人族の征伐でした。この隼人族、実は以前お話しした「熊襲(くまそ)」なんです。熊襲は九州連合に属さず、後に朝廷にも従わず激しく抵抗します。秦氏一族は、戦術にもたけて高度な製鉄での武器製造技術を持っていたことと、同じ渡来人同士なので、熊襲が話し合いに応じるのではないかと思われ、征伐に駆り出されたと言われております。

この秦氏一族の移住数は、200戸(約5000人)と言う記録があります。移住した秦氏は、同地域の隼人が激しく抵抗するために、大隅国の稲積山に城を築く事になりました。実は、宇佐郡辛国宇豆高島の別名が稲積山と言い、秦氏(辛島氏)の聖なる山でした。つまり大隅地方の稲積山は宇佐同様、移住した秦氏が聖なる山と定め、地名も稲積山として稲積城を築いたとされています。そしてこの山を、宇豆高島の意味である「宇豆峯(うずみね)」呼び、山頂に神社を祀り信仰して行く事になります。この神社の名前は、「韓国宇豆峯神社(からくにうずみねじんじゃ)」と言い、後にこの山の麓にうつされました。
その事を「宇佐記」には、「欽明天皇三十二年(571)、豊前国宇佐郡菱形池の上の小椋山に祀られたのを当地宇豆峯の山頂に遷座され、さらに国司の進言により永正元年(1504)、現在地に奉遷した。」と書かれております。これは宇佐神宮(小椋山)から宇豆峯山頂(高宇都:現名称)に神様を遷し、後に国司の進言で現在の地に遷したと言う事です。秦氏が移住と同時に宇佐から神様を遷した神社だと言う事がわかります。神社の由来書にも、豊前国から遷したと記されております。

ここで言う「韓国」は、現在の大韓民国の事ではなく「加羅国」を言い、また宇豆峯の宇豆は韓国朝鮮語の「우두머리(ウドゥモリ)」で一番と尊称を表す言葉であります。この地に現在も残る「宇都(うと)」地名は、「宇豆」つまり「ウドゥモリ」が語源であります。

移住した当時、一帯の地名を大隅国囎唹郡志摩(島)郷(おおすみこくそおほのこおりしまごう)と定められ、秦王国が形成されて行きます。
ここの北には霧島山峰があり、その最高峰は「韓国岳」と言います。「宇佐宣言集」と言う書物に、「日州(日向)の辛国城(稲積城)、蘇於峯(そほだけ)これなり。蘇於峯は霧島山の別号なり」、また「続日本書紀」には788年の霧島大噴火の事を「大隅国贈於(そほ)郡曽乃(その)峯」と記述しています。つまり、稲積山と韓国岳は同じ名前、「韓国(加羅国)」で、その語源はソウル(韓国の首都)と語源と同意の「ソフリ」が語源だと言う事であります。補足ですが、大隅国囎唹郡志摩(島)郷の志摩(島)は、辛島氏の島とマフィアが使う縄張りと言う意味のシマ(領土)を意味します。

さてさて、秦氏一族(辛島氏)は大隅国囎唹郡と、数キロ離れた大隅国桑原郡と言う2カ所に住んだとされます。この大隅国桑原郡には、鹿児島神宮(正八幡宮)が鎮座しておりますが、このお話はまた次回にさせていただきます。

鹿児島と言ったらやはり芋焼酎。
こんな寒い夜は、黒豚のしゃぶしゃぶをつつきながら、薩摩の芋焼酎のお湯割りでも飲みたいですね。
なんか、いつも〆の言葉がお酒と名産になっている今日この頃…
また次回、お楽しみに~~~!!

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九州の秦氏

2016.01.14.Thu.14:19
言葉の語源 
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金浩さん
さてさて、前回の大隅国(現霧島市)に移住した秦氏一族(辛島氏)は、大隅国囎唹郡から数キロ離れた、同じ大隅国桑原郡と言う所にも移住したと言ったところで終わりました。
今日は、この桑原郡のお話をさせていただきます。

囎唹郡に「韓国宇豆峯神社」があるのと同じく、桑原郡には「鹿児島神宮(かごしまじんぐう)」があります。この鹿児島神宮は、正八幡宮もしくは大隅八幡宮ともいいます。実は宇佐神宮と「八幡神」の正当説を現在も争っております。
何故争っているのか…

宇佐に居住する秦氏一族(辛島氏)の半数が大隅国に移住させられ、宇佐にのこった辛島氏は、祭祀を行っていた宇佐神宮から、徐々に冷遇されて排除されていきます。そして宇佐神宮は日本の神として祀られるようになっていきます。一方、鹿児島神宮は元々隼人の神様を祀っていましたが、秦氏一族(辛島氏)が八幡神を加上して祀って行きます。大隅国の辛島氏は、宇佐の辛島氏排除と今まで朝鮮半島の神を祀っていた宇佐神宮が日本の神として変って行くのを見て、この行為への抗議として、正当な八幡神は大隅の鹿児島神宮だと主張を始めます。その争いが現在に至っていると言われております。

鹿児島神宮は辛島氏出の漆島氏と酒井氏が神官を務めます。そして秦氏一族の移住は、薩摩国にまで至ります。その名残が、川内市にある新田社と言う八幡宮です。ここの神官は惟宗氏(これむねうじ)ですが、秦氏一族出です。実は薩摩藩(正式名称鹿児島藩)の藩主は代々島津性ですが、元々惟宗性を名乗っておりました。そう、秦氏一族惟宗氏の末裔なんですね。その影響もあってか、大隅、薩摩には「兵児二才(へこにせ)」と言う青年武士集団がいました。藩士、兵士としての予備教育と共に、修験道的な民族宗教色のある集団でもありました。実はこの「兵児二才」は、新羅の青年宗教戦士「花郎(ファラン)」が原型にあるといわれ、類似性が濃い集団であります。秦氏一族が移住して、隼人を征伐するにあたって最前線で戦ったのは、秦氏の青年戦士「花郎」だと言われており、その名残が「兵児二才」だとも言われております。

さて、話は鹿児島神宮に戻して、「大隅八幡宮縁起」に面白い記述があります。「震旦国(中国)の陳大王の娘である大比留女(おおひるめ)は、7歳の時に夢で朝日を受け身籠り王子をうみました。それを怪しんだ王子たちが、母子を空船(うつほぶね)に乗せて海に流したところ、大隅の海岸に行きつきます。この太子を八幡と名付け奉じました。太子はそのまま大隅に留まり、八幡宮に祀られました。母は筑前国の香椎聖母大菩薩(香椎宮)として現れました。」
これは朝鮮半島南部の王誕生神話であります。つまり、八幡神は朝鮮半島の神だと言う事がお分かりかと思います。ちなみに「大比留女」は「天照大神(あまてらすおおのかみ)」の原型になった神であり、また母は筑前の香椎宮に現れたとありますが、これは息長帯比売(神功皇后)で「多羅(加羅)国の製鉄の姫神様」であります。

実は「鹿児島」と言う名前の由来、秦氏一族に深く関連しており、「鹿児」は天の香具山(あまのかぐやま)と同意の「カグ」であり、銅を意味する朝鮮半島の言葉「カル」に由来し、「島」は宇豆高島と同意の山、もしくは縄張り、領土を意味する「シマ」だと言われております。
ちなみに鹿児島神宮のある地名「桑原」は、宇佐神宮の元宮香春神社がある地名と同じであり、その意味は秦氏一族が日本に伝えた「養蚕」由来だと言われており、「蚕」の変態を表し、死と再生のシンボルと言う意味だそうです。

今日も少々長くなりましたが、最後までお付き合い有難うございます。
そうそう、お疲れになった時には、甘めの薩摩揚げを肴に奄美の黒糖焼酎で晩酌すると、自分は疲れが吹っ飛びます。
では、また次回…

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※正直、ちょっと難しい~です。
ノートを取りながら、受講しましょう(笑)
でも、秦氏一族・宇佐神社・八幡神・花郎・製鉄・養蚕には、以前から興味がありました。

直ぐにでも行きたい九州ですが、なんせ遠くて。
地図を見ながら、旅した気分になっています。

追記
昨晩「日本の伝統美を訪ねて」河出文吾 白洲正子著を読んでいたら
作家 津本陽氏との対談で
白洲 「私はちょっと書きたいことがあるんですけど、男色の伝統。あれは5世紀の新羅から来ているらしいんですね。」
津本 「男色が?」
白洲 「うん。それが「花郎」といった軍団みたいな組織で、鹿児島に伝わったらしいんです。そんなことを今しらべているんです。・・・」
偶然、「花郎」がでてきて、ブヒャっと一人歓喜いたしました。(笑)
その興味の集大成が白洲正子著「両性具有の美」新潮文庫に結実しております。
興味のある方とはどうぞ。

佐賀県佐賀市唐人町にまつわる話①

2016.01.16.Sat.16:52
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佐賀県佐賀市唐人町にまつわる話①

JR佐賀駅を出て、目抜き通りを県庁の方に少し下って行くと、そこには唐人町と言う町があります。
この町名には、とある朝鮮人商人が深くかかわっている事をご存知でしょうか?
その人の名は、李宋歓。
生まれは現在の、朝鮮民主主義人民共和国、咸鏡北道吉州郡だと言われております。

両班の家に生まれた李宋歓は、天正15年(1587年)家族と共に舟遊びを楽しんでいる最中、突然の暴風雨に見舞われます。
その時家族はすべて溺れ死に、舟は李宋歓を乗せて数日間漂流し、現在の北九州黒崎に漂着します。
その後、大宰府参詣に立ち寄った肥前鍋島藩重臣龍造寺家晴と、その家老成富兵庫茂安に出会い佐賀に連れてこられ、二人の仲介で鍋島藩藩主鍋島直茂と面会します。
その時日本は空前の儒教ブームに沸き、両班出の李宋歓を学問に長け朱子学にも明るいと思われ、鍋島直茂から召し抱えられることとなります。

李宋歓は鍋島藩主に仕えた数年後、再び祖国朝鮮の地を踏む機会を得ます。
しかしそれは喜ばしいことではなく、文禄・慶長の役(1592〜1598)、つまり豊臣秀吉による朝鮮出兵の際に、鍋島藩の通訳としての帰国でした。
鍋島藩はこの時多くの陶工や技術者、儒学者等を連行し日本に連れてきました。
この時に多くの役割を果たしたと、1599年に鍋島直茂は李宋歓に対し、名字帯刀、十人扶持と城下にわずかながらの領地を与え、さらに海外貿易の永代御用達商の免状を与えます。
鍋島直茂はその地を、李宋歓の故郷にちなんで唐人町としました。
李宋歓はこの唐人町に、連れて来られた朝鮮人技術者達を住まわせます。
そして商いでは、日本では珍しい繊維品、陶磁器類、金物、荒物などを多く輸入し、それを扱う商人がこの町に集まり唐人町は栄えていったとされております。

李宋歓は利敵行為をしたため、祖国には二度と帰国ができず、祖国を想い自宅内に石碑を建てて毎日祖国の方に向かって拝んだそうです。
この石碑は唐人塚と呼ばれ現在も残っており、唐人神社の祖神として今でも祀られております。
李宋歓の墓は、唐人町にある鏡円寺の墓地内にあり、一族の墓に囲まれながら今も安らかに眠っております。

佐賀県佐賀市唐人町にまつわる話②

2016.01.16.Sat.17:00
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佐賀県佐賀市唐人町にまつわる話②

さてさて、前回お話しした佐賀県佐賀市の唐人町。
ここには記録によりますと、文禄・慶長の役(1592〜1598)で鍋島藩に連行されてきた180余人もの朝鮮人が住んでいたとされております。
住人は、陶工、行李工、飴工、織物工、医師、学者、etc…さまざまなすぐれた職人ばかりだったそうです。
その中でも、後の日本においての染物革命の担い手となった医師がおりました。
その名は李九山といます。
この李九山、日本名を九山道清(くやまどうせい)と名乗り、後に九山庄左衛門と改名します。
元々医術の心得があった李九山、壬辰倭乱(文禄・慶長の役1592〜1598)の時に鍋島直茂に医師として捕らわれて佐賀に連れてこられます。
そこで前回紹介した李宋歓の計らいにより、佐賀の唐人町に住むこととなり、李九山は唐人町で製薬業につき、薬房(薬屋さん)を営みます。
元々手先の器用だった李九山は、染物の技術も持っており、製薬業の傍ら染物業も始めました。
この染物は「道清更紗(どうせいさらさ)」よばれるようになります。
この道清更紗は、木版と紙型を使い布に印刷するような形式で染め抜く手法で、後に「鍋島更紗」と呼ばれ、藩主により保護奨励されて行きます。
李九山の鍋島更紗は御用品(藩主専用の品)として扱われ、大名の贈答品や幕府献上品も手掛けたと言われております。
ちなみに現在の着物の形態が確立されたのは、豊臣秀吉によってだと言われており、江戸時代にその着物が着られるようになった陰には、この鍋島更紗の技術の影響を受けた染物があったからだと言われております。
全国的染物革命を起こし、その名をはせた鍋島更紗、その技術は門外不出の一子相伝でしたが、途中代が途絶えてしまい親族の手により受け継がれていきますが、大正初期にとうとうその技術は途絶えてしまします。
現在は、偶然発見された鍋島更紗秘伝書により、佐賀県鹿島市の方がまた再興させております。
李九山は没後、李宋歓同じ、佐賀市唐人町の鏡円寺に安置され、今も一族と一緒に眠っております。

白木神社について

2016.01.19.Tue.13:40
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皆さん、九州北部には4県にまたがる有明海があります。広大な干潟、そして海苔の一大産地、ムツゴロウなどでも有名ですね。諫早湾干拓で問題になっている水門もこの有明海の一部なんです。そんな有明海は、古代より渡来人の往来が盛んに行われてきました。その中でも今日は、熊本県有明海沿岸のお話をしたいと思います。

熊本県北部の有明海沿岸に玉名郡玉東町と言う所があります。そこに小さいながらも立派な楼門がある歴史深い神社があります。社名は「山北八幡宮」と言います。由来については諸説ありますが、和銅2年(西暦702年)創建で、由緒正しき神社なんです。

実はこの神社、一説には古墳の上にあり楼門から拝殿までの敷石は、古墳の石を使っていると言われております。また一の鳥居から楼門までの間の参道には、小さな古墳があり、これは素戔嗚尊(すさのおのみこと)の古墳だと言われておりました。素戔嗚尊は牛頭天王(ごずてんのう)とも言われ、言わずと知れた日本神話のヤマタノオロチに出てくる、新羅から来た伝説の人物ですね。

さて、これだけでも十分渡来人の匂いがしますが、実はこの神社、元々「白木神社・白木宮・白木八幡宮」と呼ばれておりました。また地名も昔は白木村(現在は上白木と白木に分割)と呼ばれており、近くには白木川、神社の裏山も「白木山」と言います。また神社前には牛頭山川、牛頭田等があり、これらの地名の由来は「新羅」と「素戔嗚尊」から来ているのではないかと言われております。つまり、この白木の地一帯は新羅渡来人が治めていたと言う事ですね。

それを物語る様な証拠も、この近くにありました。この山北八幡宮から3km程北には「熊野座神社」が鎮座しておりますが、そこは元々稲佐寺と呼ばれており現在も境内に廃寺跡があります。実はそこから新羅様式の瓦等が出土しているんです。つまり稲佐寺は新羅形式のお寺だったのではないかと言われております。またこの神社の祭神は素戔嗚尊を祀っており、これらを総合すると、この玉名郡玉東町にはその昔、新羅渡来人が治めていたと言う事がわかりますね。

実は福岡県から始まり熊本県そして鹿児島県にわたり白木と言う地名や神社が数多くあり、新羅渡来人の痕跡がありました。また高句麗の渡来人、伽耶の渡来人、そして百済の渡来人の痕跡も数多く残っております。友人の創建はこう言った幾重にも重なった渡来人の痕跡や歴史を、「歴史のミルフィーユ」と言っておりました。まさに、この九州の渡来人の痕跡は、「歴史のミルフィーユ」ですね。自分は長崎県民らしく「歴史のトルコライス」と呼びたい気分です。まだまだ未発見、未発掘の古墳があるので、もう「歴史のちゃんぽん・皿うどん」と言った方があてはまるかな?でも、それらが解明できればもっと面白いでしょうね。

皆様のお近くにもきっと、こう言った新羅にまつわる神社や地名があると思うので、調べてみたり散策してみたりすると楽しいですよ。
今日の語源話、いかがでしたか?
熊本と言えば馬刺し。馬刺し、桜ユッケ、桜レバ刺し、桜肉の焼肉を肴に、芋焼酎をあおり、〆に山鹿の馬刺重でもいただきたいですね。


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古墳の石を使ったと言われる参道
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かつては素戔嗚尊(すさのおのみこと:日本神話の新羅人)の古墳と言われておりました。