FC2ブログ

神話の里の飽馬神社①

2017.01.15.Sun.15:33

以前から気になっていた神社がある。
「飽馬(あくま)神社」
いつか、探してみようと思っていたが、10年たった・・・

51B702DFVNL12555844.jpg
この群馬史再発見の中の吉永哲郎氏の
「異郷への入り口~万葉東歌が照らし出すもの」
を再読したら、格調高い吉永氏の名文に刺激され、
何としても飽馬神社に行ってみたくなった。

(吉永氏の格調高い文章を引用しつつ、ざっくり要約します)
migklojughfhk2258h.jpg

ヤマトタケルは、父景行天皇から大和政権統一の任を与えられた。
しかし、彼のもつ、超人的な力と知恵、その強い個性が、父景行天皇から、恐れられ疎んじられていた為かもしれない。
そのために、戦いが終わり大和に帰っても、父はすぐに新たな征服の為の戦いに、彼を追いやった。
(彼は 父に命じられるままに、西から東へと日本全国をまわり、戦いの旅を続けた。)
その戦いは古代専制君主制の形成過程を物語っている。
支配階級の側にあるヤマトタケルは、被支配者とのはざまに立って、行き悩んだ1人の男であった。

①吾妻国
最愛の妻オトタチバナヒメを失う。
ヤマトタケルが上総の国に向かう途中速水の海(東京口の浦賀水道)を渡ろうとすると、海中から激しい風が起り、船は進むことができなかった。この時、妻のオトタチバナヒメが「これは、きっと海神の意によるものでございましょう。お許しを得て、卑しい私の身をもって、ミコトのお命に代えて、海に入りましょう。」と言って荒れ狂う海の中に身を投じた。すると、海はたちまち静かになり、船は上総の国に着くことができた。
o040802381353363940juihg8.jpg
その後、大和政権統一への旅は続いたが、海の藻となった愛する姫をことあるごとに偲んだ。
特に、この碓氷嶺に登った時には、東南の方角に位置する浦賀水道を望み、幾度となく嘆息しながら、「あゝ吾が妻よ」と、呼びかけられた。
そして、山の東の国々を「吾妻・アガツマ」というようになったと「日本書紀」には書かれている。
d0080653hugj21142613.jpg
今、碓氷峠の広大な空間から「吾が妻よ」と口にする英雄の姿を人はつくり出せるだろうか。
最愛の人を失った人間の根源的な嘆きの姿をである。(吉永氏)

※この後 神話と天皇制、神話の創造性、今日性等について論じられていますが今回は割愛。

②飽馬神社
安中市史第三巻の「飽馬神社」の説明文よると

~『ヤマトタケルノミコト(日本武尊)は景行天皇の命を受けて、天皇に従わない東国の者どもを征伐するため道中を重ねて上州へやってきた。

今日も朝早くから馬に乗って進んでいた。こうして山の中の細道をたどり碓氷の峠をめざして行く途中で道端の老木の茂った小高い丘を見上げて馬の足を止めた。

命は毎日、馬に乗っているので飽き飽きしてしまったので、あぶみをはずして馬から下り、やがて丘の上に登られ、そこの石の上に腰をおろして、フーッと深い息を吐かれた。命は馬に乗ることが飽き飽きしていたのである。

その丘の辺りに飽馬神社が建てられている。

そんなことから、この地をアキウマ(飽馬)というようになり、これが詰まってアキマというようになり、アキマ(秋間)となったという。』

ヤマトタケルノミコトが「馬に乗るのは、もう飽きた」→飽馬→秋間 
こうして現在の「安中市秋間」となった。
う~ん!
神話の時代からある神社
古代ロマンをかき立てる。
是非是非参らねば~!!

安中市に住んで34年たつのに「飽馬神社に行った」という声を一度も聞いたことがない。
故に幻の神社なのだ。

日常の暮らし・仕事に追われている超忙しい現代日本
ならば、このワタクシが 探検してきましょう!
でも、どこにあるんだろう。

これから、プチ歴史散策をするために
「群馬県道路地図」を購入。
その地図には飽馬神社がちゃんと表記されていた。
長野(北陸)新幹線の安中榛名駅の前に「秋間みのりが丘」団地が拓けている。
その団地の東側に位置する場所にあることがわかった。

ところが!!
カーナビに「アキマジンジャ」と入れると「該当する場所はありません」
「んなぁ~」
行けないかも・・・・

下仁田安中倉渕線 秋間川にかかる広田橋を渡った辺りの田んぼで上州名物どんど焼の下準備完成
s秋間神社1
何か石碑の文化財があるので、車を停めて説明文を読んで、ビックリ!!
ナントナント、昨年から探していた三角(みかど)があったのだ。
ここだったのか!!
(三角は御門で、「多胡の碑」(日本三大古碑。上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新しい郡を作り、渡来人集団の開拓者の長・羊(ひつじ)に多胡郡を与えるという革命的に建郡碑!!)を精神的支柱とする渡来系多胡一族が安中市に移動・入植した際につけた字名。
安中市に二か所あるという三角の未発見の一つがここだったのか。本日はこれだけでも成果ありだ。)→次男が不登校になった時この先の廃校になった分校の支援教室に何か月か送迎していたので、何度も通った道だった。しかし、当時は仕事と次男の送迎で必死だったので、興味・関心の対象外だった。
s秋間神社2
江戸時代に村人の為に磯貝伊豆守という人が建てた橋の供養塔 県内最古とのこと
s橋供養塔01
s秋間神社11
s秋間神社3

※そもそも、橋供養塔とは
橋は川と川をはさんで村と村を繋ぐ大切なもの。
その橋が長く使えることは村人の生活にとって超重要。
しかも、作るのは、建設業者ではなく、村人自身。
この時代には、現在と違って、自分の村の土木工事は自分達でやるのが当たり前。
昔の人は、橋が他の世界との境界との考えもあり、村へ入る災難や疫病を防ぐ境としても大事な場所だつたので、大切にして、橋の供養塔を建てた。

ミカド探検についてはこちらへ
スポンサーサイト



神話の里の飽馬神社②

2017.01.15.Sun.15:37
sあきま03
県道122号下室田方面へ右折する。
16508673_1741556156174491_6981927929045323805_n.jpg
この坂を上がって、集落へ進む。
16711667_1741556169507823_4520388805275654171_n.jpg
集落をグロリと囲むように道路がある。
16729272_1741555976174509_7795816659172042200_n.jpg


「飽馬神社」の案内板等は一切なし。


点在する民家以外は、梅の木畑が続いている。
集落への道路を道なりに登っていって、ここで左折。
16708235_1741556002841173_3029319222253446646_n.jpg


するとそこに深い鎮守の森が・・・・
sあきま001

その一帯に、何故か森厳とした空気が漂っていた。
幻の飽馬神社にやっと辿り着けたのだ。。
誰もいないし、誰も来ない。
神話の時代から 名前を変えずに集落の人によってのみ護られてきた飽馬神社。

そして、これからも神話の里の村人たちに護られて
ここに建ち続けるだろう。

また一つ、愛する郷里に秘められた古代の歴史を紐解けた悦びに包まれつつ、幻の飽馬神社を後にした。

s秋間神社4
飽馬神社 鳥居
s秋間神社7

s秋間神社10
飽馬神社 社額 
IMG_84891258jhgf.jpg

飽馬神社 本殿
s秋間神社9
飽馬神社は北向きの神社 そこから眺める梅畑と秋間丘陵
この景色を眺めながら
「もう馬に乗るのは 飽きた」と言えば、気分はヤマトタケル!!
s秋間神社5



飽馬神社 由緒
 当社は、安中市西北の山間部に位置する東上秋間の鎮守で『上野国神名帳』従三位飽馬明神と記される古社である。鎮座の由来は、倭建命(日本武尊)御東征の時、この伊勢森に憩い御馬に飽かせ給いて、伊勢の大神を祀り「飽馬ノ神社」と称し鎮座した。『和名抄』にも「飽馬 安木末」とあり「秋間」の地名の起こりとされている。
 秋間にはかつて「秋間七騎」と呼ばれる武士団があり、『吾妻鏡』にも飽馬太郎の名も見え、武門の崇敬の厚い神社であった。
 南北朝時代には、「貞和正平の乱」によって一時社殿が衰廃したが、応永二年(一三九五)三月、真砂淡路守の尽力により再建された。この時、倭建命を合わせ祀り御偉功を顕彰した。その後、慶長年間には、井伊兵部少輔、永銭六貫の奉納があり、明治以降も倭建命に肖り、武運長久の祈願が大いになされ、社額に「源朝臣希典(乃木希典)書」が掲げられている。
 また、早くから復古神道が強く影響し、氏子の大部分が神葬祭にて祖霊祭祀を行う地域ある。
 尚、字平に鎮座していた鹿島神社は『上野国神名帳』従五位鹿島明神と記され、明治期に合祀されている。

                                咲前神社 HPより転写