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かみつけの里を歩く①

2017.01.31.Tue.13:12
群馬県は、日本で一番古墳が多い県。
今から約1500年前
5世紀の古墳時代の群馬県は上毛野(かみつけの)と呼ばれていた。
本日は、高崎市で仕事完了後、高崎市井出町の「かみつけの里博物館」周辺を歩いた。
八幡塚古墳→西光寺と薬師塚古墳→二子山古墳→かみつけの里常設展示室 
解説文を全部読んで歩いて古墳時代にタイムスリップ。

かみつけの里常設展示は何度行ってもこの博物館を造った郷土史家・元かみつけの里博物館長・近藤義雄さんの情熱を感じる素晴らしい展示。
関東平野にも百済系新羅系高句麗系の渡来人が多く入植している。

300年続いた前方後円墳の時代
保渡田古墳群の中で二番目に造られた前方後円墳。
墳長96m、墳丘は井出二子山古墳と同じ三段築成で、二重の掘があり、内堀に4つの中島を持つ。
現在は、前面に葺石(ふきいし)を施した築造当時の姿に復元されている。

この巨大な王の墓を造る為に、当時の最高水準の土木技術を駆使して、とほうもない労働力を費やしたはず。
完成した王の墓とを見上げた人々の胸に去来した想いは・・・
苦役からの解放感か
聖域への畏敬の念か
共同集落への一体感か
初めての巨大モニュメント達成への歓喜か
古代人の精神世界を想像しながら歩いた・・・・

古代の榛名山麓一帯は「車持の君」が支配していた。
どんな豪族だったのだろう・・・

そこで「車持の君」「上毛野君」「豊城入彦」は今年のマイ・テーマとなった。

「かみつけの里」として、古墳を保存してくれた人達に感謝しつつ、一人、古代人のココロを想像しながら歩いた。

邪悪なものから古墳を守っている盾持ち人埴輪
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かみつけの里博物館すぐ側の八幡塚古墳5世紀後半に築造
人物・動物はにわを並べた区画
古代の儀式・狩猟の様子・王の権威を示す財物の列・・からこの古墳に眠る王の権威を表現している。
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☆「現代の私達からすると一見奇異な感じのする王様の人物埴輪だが
実は騎馬民族のスタイル
筒袖(つつそで)、丸首の上着とズボンは、騎馬民族のスタイルであった。」
京都橘大学名誉教授 猪熊兼勝氏
~古墳時代の人々はそれを忠実に表現している。
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榛名山東南麓の井野川上流にあるこの3つの前方後円墳を総称して保渡田(ほどた)古墳群という。
5世紀後半から6世紀初頭にかけて、井出二子山古墳→保度田八幡塚古墳→保度田薬師塚古墳の順で造られた。
当時の東日本において、極めて優勢であった豪族たちの墓所として、国指定遺跡になっている。
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頂上から次に行く西光寺・薬師塚古墳方向を見渡す。
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頂上から階段を降りると・・
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王の眠るひつぎ
舟形石棺(ふながたせっかん)
身も蓋(ふた)も大きな石をくり抜いて造った棺(ひつぎ)
ヤマト政権から高い地位を認められた豪族のみに許された形。
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見事な葺石(ふきいし)
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葺石(ふきいし)工事の様子を推定したイラスト図
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中島から西光寺方向を見渡す。
そもそも中島とは・・・
掘のなかに直径約18mの円い島が4つ造られている。
ここは、古墳被葬者に対するマツリ(葬送儀礼)が行われた場所。
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かみつけの里を歩く②

2017.01.31.Tue.13:29
ちょうどランチの時間に
北方向の隣に土屋文明記念館へ
記念館二階に彩花という農家レストランが土日だけ営業している。
「古墳カレー」800円など食べながら、ちょつと一息。
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ランチ終了後は、西光寺へ
古墳前方部南面に西光寺がある。
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実はこのお寺に何年か前に伺ったことがある。
群馬の小金銅仏について調べている彫刻家のMさんに誘っていただき、
薬師塚古墳から出土した「小金銅仏」を一緒に拝観した。
小金銅仏は紫製一寸八部の薬師如来立像だった。
公式仏教伝来以前から各地の豪族はマイ・仏を持っていた。
もっと群馬の「小金銅仏」に光があたるようにして欲しい・・・
凄い価値のあるもので、これだけで、一つお堂が建つくらいの価値はあるのだが・・・
残念ながら、普通の人には、遠い存在になっているのが群馬の「小金銅仏」の現状。

☆写真はイメージです。
こういう小金銅仏を胸に抱いて王は永遠の眠りについたのだろうか・・・
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お墓と樹木に覆われた西光寺の裏に保渡田薬師塚古墳。
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この古墳は、正式な発掘調査が実施されていない。
保土田古墳群の中では最後に築造されたもの。
江戸時代に舟形石棺が掘り出され、拝見することができる。
その時出土した馬具・鏡・玉などの遺物は、かみつけの里に展示されている。

古墳の後円部に薬師堂が建つ
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元々あった場所保管にされている舟形石棺も是非ご覧あれ
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お堂の建つ後円部から前方部を見渡すとやはり古墳だったことがわかる。
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裏手から見た保渡田薬師塚古墳
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かみつけの里を歩く③

2017.01.31.Tue.13:57
保渡田古墳群の中で一番最初に造られた井手二子山古墳。
5世紀第3四半期ごろの築造
最新の発掘調査から、被災者がヤマト政権や朝鮮半島との強いつながりを持っていたことが判明した。
そして、その中で得た先進技術により、水路を造って地域を開拓したり、馬の生産をおこなったりして、地域の開発産業の更新に多大な業績を残していたことが判明。
副葬品は、繰り返し受けた盗掘によりほとんど失われていると考えられていた。
ところが、主体部周辺の土を水洗いするなどの丹念な調査から、金属の装飾具、金銅の馬具、金銅製の冠または飾履(しょくり)、雲母製の装身具などの破片が発見された。
出土品には貴重な朝鮮半島製品が含まれていることから、この被葬者は朝鮮半島とのつながりを持っている人物であるという考えかたが主流になっている。
この古墳から県内で最も多く人物埴輪が採用された。
主要なものは、藤岡市にある本郷・猿田埴輪窯で生産されたものと考えられ、保渡田古墳群の築造を機に本郷・猿田埴輪窯の築造が開始された可能性が高いという意見もある。


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二子山古墳も、本来は八幡塚古墳と同じように葺石と埴輪で飾られていた。
しかし、1500年という膨大な時の流れを経た古墳の姿を八幡塚古墳と見比べてもらう為にそのままの形で保存してある。
現在は、一面笹でおおわれている。
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後円部頂上の1m地中に実物の舟形石棺が保存されている。
ここでは、実物大の石棺写真が見学できる。
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最後に これは、この古墳を造った人のお墓・・・・
名のなき人々の一生をかけた労働の集積が1500年の時を経て私達に伝えようとしていることとは・・・・
王の墓よりもこの小さなお墓に
私はうたれた。

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かみつけの里を歩く④

2017.02.17.Fri.13:09

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全国で多数、巨大古墳が発掘されても、豪族の居館の遺構は発見されなかった。
それが、1981年に・・・
上越新幹線建設にともなう発掘調査で群馬町大字三ツ寺・井出地区周辺の「島畑(しまばたけ)」を掘ってみたら・・・
「島畑(しまばたけ)」を掘る
その地点は、猿府川という小河川がちょうど屈曲する部分にあたり、川が形成した狭小な谷底平野には水田が営まれていた。
水田の中には、一辺90m、高さ2mほどの方形の高まりがあり、畑や桑畑として利用されていた、地元の人たちはそこを「島畑(しまばたけ)」と呼び慣わしていた。
中略
すなわち、大規模な掘をめぐらせた中に90m四方ほどの人工的な高まりを設え、その上に建物、柵、祭祀の施設などを有機的な関係をもって配した類型のない巨大遺構であることが明らかとなったのである。
調査担当者は、こうした計画的な大規模施設を古墳時代のと首長(豪族)にかかわる居所や祭祀の場所と考えるほかにないとの結論に達した。
「わが国ではじめての古墳時代の豪族居館」として三ツ寺Ⅰ遺跡の発見は大きく報じられた。
「古墳時代の地域社会復元・三ツ寺Ⅰ遺跡」若狭徹著より

新幹線高架下の三ツ寺Ⅰ遺跡案内板
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ブルーシートで覆われている残念な現状・・・・
この豪族居住跡も是非復元して欲しい。
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三ツ寺1遺跡
古墳の主と思われる豪族の館
保渡田古墳群から南東約1キロ付近では、上越新幹線の建設に伴い、豪族の館が発掘されました。一辺が86メートルの方形を取り囲む、幅30メートル、深さ4メートルの堀を持つ巨大な邸宅跡は古墳時代のものと考えられ、保渡田古墳群に葬られた王族の館だといわれています。5世紀後半に隆盛を極めたこの王家は、榛名山の2度の噴火によって、転居もしくは衰退したと思われます。
(高崎市HP)


☆小さな猿府川
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☆すぐ近くに唐沢川
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