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<訃報>上田正昭さん88歳=京都大名誉教授、歴史学者

2016.03.14.Mon.09:45
Img上田先生素敵です
毎日新聞 3月13日(日)20時34分配信

<訃報>上田正昭さん88歳=京都大名誉教授、歴史学者
京都大名誉教授の歴史学者、上田正昭さん
 東アジア全体を視野に入れた古代史研究で知られる京都大名誉教授の歴史学者、上田正昭(うえだ・まさあき)さんが13日、京都府内の自宅で死去した。88歳。近親者で密葬を営む。



 兵庫県豊岡市城崎町生まれ。1950年京大文学部卒。京都府立高校教諭、京大助教授を経て71年京大教授、91年名誉教授。91~97年大阪女子大(現大阪府立大)学長、96年からアジア史学会会長、99~2015年世界人権問題研究センター理事長、03年から京都府埋蔵文化財調査研究センター理事長。

 太平洋戦争を学徒として経験し、天皇制とは何か、成立過程を解明することから古代史研究が始まったという。初めての単行本である「神話の世界」(56年)や毎日出版文化賞を受賞した「日本神話」(70年)などで神話を手がかりにしたほか、中国の土着宗教である道教や仏教、日本の神道といった宗教、さらに神楽や舞楽などの古代芸能などを東アジアの中で比較しながら、幅広い視点で古代日本の成立について論じた。

 「大和朝廷」(67年)では、日本の古代王権は単系で発展したのではなく、奈良県の三輪地域で4世紀前半に三輪王権が成立し、5世紀の河内王朝へと王権が受け継がれたとする河内王朝論を説いた。

 古代の日本で朝鮮半島、中国大陸から渡来した人々が果たした役割を検証した「帰化人」(65年)で、戸籍がない段階に「帰化人」は存在しないと指摘したのがきっかけとなり、ほとんどの教科書が「帰化人」という言葉をやめて「渡来人」と表記するようになった。

 中央の大和からみた中央史観ではなく、地域からの視点で歴史と文化を考えることを説き、江戸時代の朝鮮通信使や部落史の研究でも知られた。著書は著作集(全8巻)など81冊、編著・共著は541冊。

 鎮守の森をテーマに自然との共生を目指して02年に発足したNPO法人社叢(しゃそう)学会の理事長(14年名誉顧問)、07年にオープンした島根県立古代出雲歴史博物館の名誉館長を務めた。01年の宮中歌会始で召人を務めるなど歌人でもあり、歌集に「共生」「鎮魂」「史脈」がある。

 ◇独創的な仕事した

 哲学者の梅原猛さんの話 独創的な仕事を成し遂げた歴史家。被差別民ら弱い立場の側に立って歴史を位置付けた。そんな進歩史観のある人はたいてい宗教に関心を持たないのに、神道に目を向けた功績も大きい。東アジア全体を見渡す視点は今の時代に必要な事。病を患いながら昨年も本を次々と刊行し、感心しながら心配していたが、その心配が的中してしまった。


・金浩さん
また一人、歴史研究者が亡くなりました。
金達寿先生、松本清張先生達と共に、「帰化人」と言う言葉はおかしいだろうと、「渡来人」と言う言葉を使うきっかけにもなったお方。
今頃天国で、金達寿先生、鄭詔文先生、司馬遼太郎先生達と、歴史談議に花咲かせ、一杯飲んでいるだろうな。
上田正昭先生のご冥福を、お祈り申し上げます。

・古代史ウォーカー
悲しいです。
私が、日韓の古代史にハマったのも、ブログを始めたのも上田正昭先生の存在が大なのです。
「帰化人」は、私の亡父の本棚にもあった古代史を愛する人の永遠のベストセラーです。
朝鮮半島と日本の真の友好に貢献した本物の歴史学者、上田先生に合掌。


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半世紀前に盗難、宝塔を復元 京都・東寺の毘沙門天立

2016.03.22.Tue.08:07
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約半世紀ぶりに左手に宝塔を持つ姿でお目見えした兜跋毘沙門天立像(京都市南区・東寺)

 世界遺産の東寺(教王護国寺、京都市南区)の宝物館で20日、春の特別展「東寺の天部(てんぶ)像」が始まった。修理を終えた国宝「兜跋毘沙門天立像(とばつびしゃもんてんりゅうぞう)」が「宝塔」を持った姿でほぼ半世紀ぶりにお目見えした。

 如来や菩薩(ぼさつ)、明王などの仏のうち、守護神や福徳神の役割を担う「天部」をテーマに約60点の史料を期間中に公開している。

 兜跋毘沙門天立像は羅城門にあったと伝わり、1968年の公開時に左手に持っていた宝塔(高さ約24センチ)が盗難にあった。以降は宝塔がない状態だったが、今回の修理で宝塔の複製品を新たに作り、元の姿で展示した。

 ほかに不動明王坐(ざ)像の頭上に掲げられていた国宝「天蓋(てんがい)」は9年ぶりの公開となる。迫力ある直径1・4メートルの丸いヒノキ材に施された彩色が目を引く。

 東寺で見つかった老中・松平定信の自筆の書状も初公開。ユネスコ記憶遺産に登録された「東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)」を書写させてもらった礼状で、喜びの気持ちが文面から感じられる。

 5月25日まで。途中で展示を入れ替える。有料。

※京都新聞デシタル版より

謎の仏像内から重源・快慶の名 滋賀、発見に関係者興奮

2016.03.23.Wed.10:04
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像を作る時に協力した人の名が記された結縁交名。
重源や快慶と思われる僧侶も名を連ねており、重文に追加指定された(滋賀県教委提供)

 鎌倉時代の作とだけ伝わっていたMIHO MUSEUM(滋賀県甲賀市)所蔵の木造地蔵菩薩立像(重要文化財)の正体が明らかになってきた。1年半前の修理で、胎内から菩薩の印を押した紙や札が見つかった。東大寺を鎌倉時代に再興した重源(ちょうげん)と当代随一の仏師快慶、奈良の新薬師寺との関係をうかがわせる記述が含まれ、国も重文の追加指定に踏み切った。意外な「発見」に県内の文化財関係者は興奮している。

 この像は13世紀後半の作とされる。高さ52・5センチ。作者やどこの寺にあったかは分からず、東京の古美術商が所蔵していた1972年に重文指定を受けた。94年に同ミュージアムを運営する秀明文化財団が入手し、館蔵品の展覧会で時折、披露してきた。

 像の表面の虫食いや塗りが剥げ落ちるなど傷みが目立ち台座が不安定だったため、2014年から国の補助を受け保存修理に取りかかった。動いても中から音はなく、ずっと空洞と思われていたが、開けてびっくり。朽ちた紙や札がびっしり詰まっていた。

 貴重なものとみて国は史料の読み込み調査をした。この結果、地蔵菩薩の姿をはんこで押し並べた「印仏(いんぶつ)」の紙に建久8(1197)年の文字が見つかり、像の制作時期と合わないことからこの像は2代目の可能性が出てきた。紙の裏には像を造る際に協力した僧侶らの名簿(結縁交名(けちえんきょうみょう))が記され、重源を指す「南无(なむ)阿弥陀仏」や快慶を意味するという「アン(梵字)弥陁(みだ)仏」の仏号が見つかった。

 滋賀県教育委員会文化財保護課によると、重源と快慶は東大寺南大門の金剛力士像をはじめ各地で寺院と仏像をつくった名コンビ。この2人が寄付などを目的に同時に連名する例は珍しいといい、古川史隆主査は「印仏を納入した地蔵菩薩像はかなり由緒のあるものだったはず」と話す。

 印仏の紙の間に供養札も挟まれており、「新薬師寺」の文字があった。地蔵菩薩立像との関連は不明だが、古川主査は「この像はもともと奈良にあった可能性が高い」と推論する。

 印仏や供養札を含む一連の納入品は、11日に重文の追加指定答申を受けた。同ミュージアムの片山寛明学芸部長は「中に文書が入っているとは夢にも思わなかった。作者まで分かれば良かったが、逆にまた謎が出てきて興味深い」とロマンを感じている。

【 2016年03月21日 17時00分 】


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※京都新聞より

古代史学者の上田正昭さん死去 京大名誉教授

2016.03.25.Fri.09:24
古代国家や渡来人などの研究で知られる古代史学者で、京都大名誉教授の上田正昭(うえだ・まさあき)さんが13日、京都府亀岡市の自宅で亡くなった。88歳だった。近親者で密葬を営む。
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 1927年、兵庫県生まれ。京都大卒業後、高校教員や立命館大講師などを経て、京都大教授、大阪女子大(現大阪府立大)学長を歴任。アジア史学会長、世界人権問題研究センター理事長、姫路文学館長、高麗美術館長などを務めた。

 古代王権の政治制度、神話の研究のほか、人権問題にも取り組んだ。古代の活発な国際交流を説き、中国、韓国・北朝鮮などの研究者とアジア史学会を設立、「21世紀を平和の世紀に」と訴えた。

 京都府亀岡市の古社・小幡(おばた)神社の宮司も務め、「鎮守の森」の重要性を研究する社叢(しゃそう)学会も旗あげした。歌人としても知られ、2001年の宮中歌会始の召人(めしうど)も務めた。

 97年に大阪文化賞、98年に福岡アジア文化賞・学術研究賞、00年に南方熊楠(みなかたくまぐす)賞を受賞。著書に「日本神話」(毎日出版文化賞)「帰化人」「日本文化の基層研究」「私の日本古代史」など多数。

上田正昭さん死去 88歳 日本古代史の第一人者

2016.03.25.Fri.09:29


2016年3月14日 朝刊

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 日本古代史研究の第一人者で京都大名誉教授の上田正昭(うえだまさあき)氏が十三日、死去した。八十八歳。兵庫県生まれ。近親者で密葬を行う。死因は不明だが、近年は、がん治療を受けていた。
 奈良県で、四世紀に三輪王権が成立したが、その後、五世紀に大阪府の勢力が支配したという「河内王朝説」を唱えた。また、朝鮮半島などから渡ってきた「帰化人」との用語が日本中心的だとして、「渡来人」を定着させた。
 東アジアを視野に入れた研究でも知られ、朝鮮や中国との関係を重視して日本古代史を分析。日本神話や古代朝鮮史などの研究で業績を残した。一九九〇年にはアジア史学会の設立に参加、同学会会長も務めた。
 太平洋戦争中、学徒動員でいた東京の石川島造船所で空襲に遭い、学友を失い、天皇制とは何かと考えたのが古代史研究のきっかけだった。
 五〇年、京都大文学部卒。京都の府立高校に教諭として勤務した後、京大助教授、京大教授を経て九一年から大阪女子大(現大阪府立大)学長。島根県立古代出雲歴史博物館名誉館長も務めた。
 在日朝鮮人差別や被差別部落の問題にも積極的に取り組み「戦争こそ最大の人権侵害」と説いた。「日本古代国家論究」「日本神話」「古代伝承史の研究」など著書多数。古代から続く小幡神社(京都府亀岡市)の宮司を務める家柄としても知られていた。
 「現代の若者は、戦争のむごさを知らない。太平洋戦争で、なぜあれほど多くの人々が死なねばならなかったのか。戦後七十年となった今、それだけは伝えておきたい」
 死去した歴史学者の上田正昭氏は、二〇一五年十一月、共同通信のインタビューでこう繰り返した。
 戦争末期、空襲で、多くの友人を失った。「黒焦げになりながら、助けを求めて息絶える瞬間まで動いていた人々の姿が忘れられない。誰もが敗戦を覚悟していたのに、日本は『天皇陛下の御ために』と言いながら破局に向かっていった。天皇制とは何なのか。そう思ったのが古代史研究のきっかけです。私の研究生活は、あの悲惨な焼け野原から始まりました」
 敗戦で皇国史観が否定され、歴史観の立て直しが迫られた日本。上田氏は、日本だけでなく中国や朝鮮半島など東アジア諸国の文献や民俗学、最新の発掘成果を検証し、「島国である日本は古来、海の道から多くの渡来人や文化を受け入れてきた。日本の歴史は、善き隣人である大陸との交流史」と訴えた。
 約七十年の研究生活で、著作は八十一冊。晩年はぼうこうがんと闘いながら執筆を続け、二〇一一年の東日本大震災は病床でニュースを聞いた。
 「電力会社や学者が『想定外』と言うのを聞いて怒りに震えました。平安時代の八六九年に起きた貞観津波はしっかりと記録されているのに、なんと無責任な。歴史の教訓を、将来に生かさなければ」と話していた。