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貫前神社の古代の神

2016.01.20.Wed.13:11
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金浩さん
地図-群馬県富岡市-2006
群馬県富岡市
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富岡製紙場

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皆さん、群馬県富岡市の富岡製糸場が世界遺産に登録されたのはご存知ですよね。富岡市は群馬県の南西部に位置し、古くから養蚕織物の町として有名で、近代は生糸生産が盛んでありました。今日はこの、富岡市にまつわる語源のお話をしたいと思います。

富岡市を中心として甘楽郡甘楽町と下仁田町一帯は古代、「上野國甘楽郡(かみつけのくにかんらのこおり)」と言う地名でした。1954年以前の富岡市は「甘楽郡富岡町(かんらぐんとみおかちょう)」と呼ばれ、1954年に周辺の村と合併し富岡市となり、2006年には旧富岡市と旧甘楽郡の一部が合併し、現在の新しい富岡市になりました。

現在、「上野國(群馬県)一之宮」として、富岡市には「一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)」が鎮座しております。この神社には興味深い神様が祀られております。祭神は、「経津主神(ふつぬしのかみ)」と「比売大神(ひめおおかみ)」の二柱ですが、「経津主神(ふつぬしのかみ)」は後から合祀された祭神で、元々は比売大神だけが祀られておりました。興味深い神様はこの比売大神の事ですが、読んで字の如く名前のない比売(姫)とだけ呼ばれる女神なんです。いったいこの比売大神はどんな神様なんでしょう?

神社で一般的に一之宮とは、その地域で一番くらいの高い神社の事を言いますが、ここ貫前神社は元々、上野國(群馬県)一之宮ではなく二之宮(にのみや:2番目)でありました。前橋市にある「赤城神社(あかぎじんじゃ)」が元々一之宮でしたが、なぜこの神社が一之宮になったのかと言いますと、昔、朝廷に絹の織物を税の代わりに献上しなくてはならなかったのですが、赤城神社は物資が不足していたので、貫前神社の比売大神にお願いして代わりに献上してもらいました。その絹の織物の出来があまりにも素晴らしく、貫前神社が一之宮に格上げされたそうです。実はここ甘楽郡(富岡市一帯)は織物の産地であり、この比売大神は織物の女神様だったんです。

さらにこの「甘楽郡(かんらぐん)」は元々「甘良郡(からぐん)」と呼ばれ、さらにさかのぼれば「韓良郡」と言う字を使っておりました。ここの民は養蚕織物、麻の織物、製鉄、焼物技術が優れており、特に養蚕織物と製鉄は群を抜いていたそうです。もうお分かりですね。ここの民は朝鮮半島南部の古代国、加羅の渡来人が開拓した地なので「韓良郡」と言う地名になりました。つまり貫前神社の比売大神は、加羅(伽耶)の渡来人が祀った織物の女神様で、この渡来人達の織物の技術が長けていたので、二之宮だった貫前神社が、一之宮に格上げされたんですね。ちなみに、二之宮赤城神社も「からやしろ(韓社)」と呼ばれ、加羅(伽耶)渡来人が祀った神社だそうです。

話を整理すると、韓良郡 → 甘良郡 → 甘楽郡 → 富岡市、甘楽郡甘楽町、甘楽郡下仁田町になるんですね。そして冒頭に紹介した世界遺産の「富岡製糸場」、そこには伽羅の渡来人がもたらした織物技術の歴史が根底にある、つまり製糸の技術の元祖は渡来人なんですね。一説によるとここの渡来人は、秦氏の氏族、つまり加羅系新羅の渡来人だとも言われておりますが、その続きはまた次回にしたいと思います。最後に、富岡市を流れる河川名を「鏑川(かぶらがわ)」と言いますが、これも「韓(から)」が語源だと言われております。

群馬の冬は空っ風(山からの吹きおろし)が強く冷え込みます。今宵は下仁田ネギのネギ焼を肴に、芋焼酎のお湯割りで身体を温めたいと思います。
ではまた次回・・・

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一之宮 貫前神社
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多胡碑について

2016.01.22.Fri.13:56
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金浩さん


皆さん、前回お話しした富岡市の隣町に、吉井町と言う所があります。上信越自動車道を使ってもほんの10km程度の距離です。この吉井町は富岡市同様、渡来人にまつわる街でもあり、大変貴重な史跡がある所でも有名です。今日はこの、吉井町お話をしたいと思います。

この吉井町は、2009年に高崎市編入されましたが、それ以前は多野郡吉井町(たのぐんよしいちょう)と言う地名でした。この吉井町に辛科神社(からしなじんじゃ)が鎮座しておりますが、大変歴史が古く西暦701年頃に創建されたと言われております。
tamikarjからしなさん
辛科神社
この神社の境内には大変興味深い石碑のレプリカがあります。この石碑の実物は同じ吉井町の少し離れた所にあり、碑の名前を「多胡碑(たごひ)」と言います。

さて、この多胡碑には6行80文字が刻まれておりますが、碑文の内容は要約すると次のような事が書かれております。「朝廷の命令により、上野國片岡郡、緑野郡、甘良郡から三百戸を分割して新たに郡をつくり、羊を統治者とする。郡名を多胡郡とする。」と言った内容です。
ここに書かれている「羊」は名古屋の「羊神社」を建てた、新羅渡来人「多胡羊太夫(たごひつじだゆう)」の事ですね。
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名古屋の羊神社
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安中市中野谷の羊神社
余談ですが、何故羊太夫と言う名前なのかと言いますと、生まれが未年の未の日だからだそうです。そして多野郡吉井町の「多野郡」はこの「多胡郡」が転訛した地名で、渡来人(胡)が多く住んだと言う意味でこの地を「多胡郡」としたそうです。

さてこの多胡碑、どこがすごいかと申しますと、国指定特別史跡でありいわゆる国宝扱いであり、日本で最も古い石碑の一つとされています。またこの碑文は「続日本紀」にも書かれており、どれだけ重要かと言う事がわかりますね。そんな重要な石碑に刻まれた内容が、渡来人の事柄って考えるとすごい話ですよね。

さて、甘楽郡(かんらぐん)には元々、韓級(からしな)と言う郷がありました。特に加羅渡来人が多く住んだので韓級郷と呼ばれ、多胡郡設立の際に甘楽郡から分割され多胡郡に編入されました。この韓級郷に鎮座していた神社が「韓級神社(からしなじんじゃ)」で、冒頭で述べた「辛科神社(からしなじんじゃ)」の事なんです。加羅系新羅渡来人が祀った神社なんですね。祭神を見ても一目瞭然、新羅渡来神の速須佐之男命(すさのおのみこと)と、その息子である五十猛命(いそたけるのみこと)が祀ってあります。

今日のお話をまとめると、多胡郡 → 多野郡吉井町 → 高崎市吉井町で、韓級神社→ 辛科神社になったんですね。そしてその郡司が多胡羊太夫で、その事を刻んだ石碑が多胡碑と言う事です。分かりになりましたでしょうか?群馬県にはまだまだ渡来人ゆかりの地名がございますが、それはまた、お話しする機会を設けて行いたいと思います。次回は、羊太夫が埼玉県で大変活躍したお話をしたいと思います。

群馬と言ったらだるま弁当に焼きまんじゅうですね。
アツアツの焼きまんじゅうの味噌ダレは、酒の肴やおやつにピッタリ!!
今宵は芋焼酎のお湯割りに、アツアツの焼きまんじゅうでもいただこうかな?
ではまた次回・・・

武蔵國幡羅郡(むさしのくにはたらのこおり)

2016.01.27.Wed.11:19
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金浩さん

皆さん、まだまだ埼玉には渡来人の痕跡が沢山あります。秩父から西に下った所に、埼玉県深谷市がございます。この一帯にはかつて、渡来人が入植した痕跡があります。今日も引き続き埼玉県にまつわる渡来人のお話、深谷市一帯の事をごお話したいと思います。

さて、深谷市東部と熊谷市にまたがる一帯には、大小様々な古墳と歴史ある神社が数多くあり、古代この一帯を「武蔵國幡羅郡(むさしのくにはたらのこおり)」と呼んでおりました。「武蔵國」は埼玉県、東京都、神奈川県の一部にまたがる古代国名です。幡羅郡は諸説色々ありますが、加羅系新羅渡来人、秦氏(はたうじ)氏族が多く住んだことから名が付いたと言われております。郡設立年についてははっきりしておりませんが、武蔵國が設立する以前から、ここ幡羅郡には秦氏が入植していたと言われております。深谷市の「原郷(秦郷)」や「唐沢川(加羅沢川)」、「幡羅(ハタラ)町」、熊谷市の「上奈良」、「下奈良」、そして「奈良神社」等、各地名の語源に渡来の痕跡がある事は確かです。

さて、幡羅郡のお隣、現在の深谷市西部と大里郡寄居町一帯は古代、「武蔵國榛沢郡(むさしのくにはんざわのこおり)」と呼ばれておりました。実はここも語源が加羅系渡来人、秦氏ではないかと言われております。

幡羅郡、榛沢郡のお隣、深谷市南部、熊谷市、大里郡寄居町、比企郡小川町一帯を、古代「武蔵國男衾郡(むさしのくにおぶすまのこおり)」と呼んでおりました。男衾郡の中心部は、現在の関越自動車道花園インター西側の、現深谷市本田と言う所ではないかと言われております。この本田にある凸版印刷深谷工場付近はかつて、「百済木郷(くだらぎごう)」と呼ばれておりました。ここの工場敷地内には百済木遺跡があり、そこから住居跡、集落跡が見つかり、男衾を治めていた郡司(郡長)が住んでいたのではないかと言われております。百済木郷に住んでいた郡司の名は、「壬生吉士福正(いぶのきしふくしょう)」と言う人で、名前にある「吉士」とは百済や新羅の階級を表す言葉であり、地名を見てもお分かりの通り百済の渡来人なんです。

この壬生吉士福正は、莫大な財産を持っていたと言われており、古文書を読むとその事がわかる様な記録が残っておりました。郡司になれば一生涯税金が免除される厚遇にあやかりますが、家族は対象外でした。そこで壬生吉士福正は、自分の二人の息子の一生涯分の税金を一括でまとめ払いした記録が残っております。また東京都国分寺市には古代、国営の寺院「国分寺」があり、そこには仏舎利の「七重の塔」がありましたが、落雷により焼失してしまいました。そこで壬生吉士福正は私費を投じて再建を図り、仏教の習いに従い本来あるべき敷地の中心部に位置を変えて、七重の塔を新たに建てたとの記録があります。現在の金額にして十数億の金額です。壬生吉士福正の懐の太さと、財力が半端ではなかったことがわかりますね。

さて、百済木遺跡(凸版印刷深谷工場)北側に、鹿島古墳群があります。荒川の河川沿い1キロにわたって、56基の円墳が確認されており、壬生吉士福正一族の墓所だと言われております。現在は男衾と言う地名は残っておらず、駅名や施設名でしか確認できませんが、男衾郵便局近辺の地名を「牟礼(むれ)」と言います。これは古代朝鮮半島の言葉で、「村、集落」を意味し、地名の語源に渡来人の名残を現在に残しております。男衾郡の入植渡来人達は、焼物の技術が長けており、瓦や須恵器を焼いた窯跡が4カ所も見つかっており、国分寺の瓦もここで焼いたと言われております。

さて、今日の埼玉深谷地方のお話、いかがでしたでしょうか?
まだまだ続く埼玉渡来人話、次回もこうご期待!!
ではまた次回・・・

※春になったら、地図を片手に旧百済木郷・牟礼を歩いてみたい

さきたま古墳群

2016.01.29.Fri.15:24
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皆さん、埼玉県は歴史好きにはロマンを感じる地ですね。今日も引き続き、埼玉県の渡来人のお話をしたいと思います。

埼玉県行田市埼玉(ぎょうだしさきたま)には、大型古墳群の「さきたま古墳群」があります。現在は大型古墳が9基現存しておりますが、かつては40基以上あったと言われており、その大半は湿地の埋め立てや田畑の開墾、そして戦等で破壊されてしまいました。

さて、この古墳群で一番有名なのは、日本最大の円墳である「丸墓山古墳(まるはかやまこふん)」です。直径が108m、高さ18.9mもある驚くほど巨大な古墳ですが、いまだかつて正式な調査が行われていないので、埋葬部分や副葬品がどこにあるかはわかっておりません。この古墳、大きさのみならず歴史的に有名になった古墳でもあるんです。野村萬斎主演の映画「のぼうの城」で上地祐輔演じる「石田三成(いしだみつなり)」が「忍城(おしじょう)」の水攻めで陣取ったうず高い古墳が、この丸墓山古墳なんです。この上からの眺めは2km離れた忍城を一望できるほどで、当時水攻めで築いた堤防(石田堤)の一部は、今でもこの古墳に通づる桜並木道として残っております。ちなみに自分は、古墳に登る事は死者への冒涜と思っておりますので登っておりません。

さてこの丸墓山古墳から200mほど西に行った所に「将軍山古墳(しょうぐんやまこふん)」があります。この古墳は1894年、近隣住民が古墳の石を庭石に使おうと掘っていたら、石室が見つかり、かなり貴重な出土品が確認されました。それは馬冑(馬の兜)と蛇行鉄器(鞍の後ろに付ける、旗立て)です。これらは高句麗の古墳の壁画にみられる馬具で、日本でも出土例がきわめて少なく、馬冑は3例、蛇行鉄器は9例しかなく、さらに古墳の形式が新羅地方によく見られる横穴形式で、朝鮮半島との縁が濃厚であり、古墳の被葬者は渡来人の武人(軍人)ではないかと言われております。明治に入りこの古墳も、湿地の埋め立てに使われてしまい、原形をとどめないほど崩れ落ちましたが、1996年に復旧作業に取り掛かり、現在は埋葬当時の古墳内部の様子が見られる展示館になっております。

同じさきたま古墳群の中に「稲荷山古墳(いなりやまこふん)」があります。この古墳からは鉄剣が出土し、X線で調べてみると文字が刻まれているのが確認できました。この鉄剣は現在、国宝に指定され現物は隣接する「埼玉県立さきたま史跡の博物館」で見る事が出来ます。色々と調べてみるとここもやはり、豪族となった渡来人の古墳だと思われます。

実はこの古墳群、埼玉県の県名の語源になっている事をご存知ですか?ここに埋葬されている被葬者の魂を「人に幸福を与える神の霊魂」と言う意味で、「幸御魂(さきのみたま)」と言いました。「幸」の字は古代「幸ふ(さきはふ)」と読みました。地名の変化を追ってみると「幸御魂(さきみたま)」→「幸御(さきたま)」→「前玉(さきたま)」→「埼玉(さきたま)」→「埼玉(さいたま)」となって行きました。つまり、埼玉県の県名の語源は、渡来人の魂だったんですね。

今日の埼玉県名語源の話はいかがでしたか?
まだまだ引き続き、埼玉の渡来人話をして行こうと思います。
ではまた次回

高麗神社(こまじんじゃ)散策①

2016.02.01.Mon.11:54

皆さん、今回は埼玉県の高句麗渡来人のお話をしたいと思います。

埼玉県日高市には、「高麗神社(こまじんじゃ)」が鎮座しております。この神社の神様は「高麗王若光(こまおうじゃっこう)」といいますが、実は実在した人物なんです。では、どんな人物だったのでしょう?

高麗王若光は高句麗使節として来日しますが、滞在中に高句麗が滅亡してしまい、そのまま日本に住む事となり、神奈川県の大磯に上陸して開拓をします。
そこで大磯の山を高麗山(高麗山)として「高麗権現社」を祀ります。
大磯高麗山の夕暮れ
神奈川県中郡大磯町高麗 高麗山
これが後に「高麗神社」となり現在の「高来神社(たかくじんじゃ)」になります。
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その後神奈川県高座郡(たかくらぐん)に移り開拓をしていきます。高座は元々「高句麗」であり、地名が高句麗 → たかくり → 太加久良(たかくら) → 高倉(たかくら)→ 高座(たかくら)に転訛した地名です。

西暦716年、朝廷の命により静岡、山梨、神奈川、東京、千葉、栃木、茨木等に分散して居住していた1799人の高句麗渡来人を、未開の地である埼玉県中南部(日高市、飯能市北東部)に移住をさせて、「武蔵國高麗郡(むさしのくにこまのこおり)」を新設します。この時、郡司(首長)として赴任したのが、高麗王若光なんです。

この地に移住した高句麗渡来人は、様々な技術を持っており、馬の技術、須恵器、瓦、織物、紙漉き、製鉄技術の手腕を発揮し、近隣に多くの影響を与えたと言われております。
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上空からの巾着田
彼岸花咲く巾着田
巾着田は彼岸花の名所
現在日高市の観光名所となっている、「巾着田(きんちゃくだ:川が蛇行し巾着の様な形をした台地)」は、高句麗渡来人が開墾した田畑と言われております。また、百済渡来僧侶「行基」が多摩地方のお寺に仏像を建立する時に、物資が無く困っていたのを助けたのは高麗王若光であり、新羅渡来人「多胡羊太夫」が秩父の地で銅を産出する様に助言したのも高麗王若光と言う伝説があります。

現在は高麗郡と言う地名は消滅してしまいましたが、日高市の中に「高麗本郷(こまほんごう)と言う地名と、「高麗川(こまがわ)」と言う河川名が残っております。
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夏は川遊びの名所 高麗川