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羊太夫(ひつじだゆう)伝説に魅せられて①吉井編

2015.01.04.Sun.14:47

★「昔を語る多胡の古碑」と上毛カルタでお馴染みの「多胡碑(たごひ)」
この「多胡碑」って一体何?
~この辺りに数多く居住した帰化人のために初めて「多胡郡」を設けた建郡碑である~
と辛科(からしな)神社の宮司氏から頂いた小冊子には書いてある。
碑文の中の「・・給羊・・」の羊が大変問題で、人名説・方角説・時刻説と
論争が白熱したが、現在では、人名説が有力である。
西上州そして秩父方面にも「羊太夫(ひつじだゆう)」に関する多くの遺跡・伝説が残されている。
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★羊太夫伝説(ひつじだゆうでんせつ)
 ~昔、この地に羊太夫(ひつじだゆう)という者がいて、超能力を使う八束小脛(ヤツカノコハギ)という従者に名馬権田栗毛(ゴンダノクリゲ)を引かせて、空を飛んで、奈良の都に日参していた。
ある時、羊太夫が昼寝をしている小脛の両脇を見ると羽が生えていたので、いたずら心から抜いてしまった。
それから、子脛は空を飛べなくなってしまい、羊太夫は都に日参できなくなった。
朝廷は、羊太夫に謀叛の疑いをかけて、羊太夫一族を攻め滅ぼしてしまった。
羊太夫は、金の蝶に化して飛び去っていった。
~という悲しい伝説です。
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★安中市中野野の竹林の中に静かに鎮座する羊神社 「多胡宮羊宗勝神儀位」の石碑がある。
集落42戸のうち40戸が多胡姓。
安中市下秋間と榛名町上里見(東間野)にも多胡集落がある。
榛名町上里見(東間野)には、多胡神社があり、やはり、「多胡宮羊宗勝神儀位」の石碑がある。
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★羊太夫が奈良の都に上る時いつも立ち寄ったとされる羊神社
名古屋市北区辻町五丁目26番地

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★2004年「羊太夫伝説の地を歩く会」を企画した時、大変お世話になった辛科(からしな)神社
吉井町神保に鎮座する多胡郡の総鎮守
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羊太夫(ひつじだゆう)伝説に魅せられて②吉井編

2015.01.05.Mon.11:24
羊太夫(ひつじだゆう)伝説地
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★吉井町塩 八束山
羊太夫の居城跡があったとされる。


★八束山の麓にある住吉神社
子供のいない勝定夫婦が、出生祈願にお参りしたのが、この大沢不動尊のちの住吉神社
その甲斐あって生まれたのが、羊太夫である。
羊太夫発祥の地
舟石・鳥穴・不動の滝壺・・・様々な伝説がある。

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★七輿山古墳 藤岡市上落合
羊太夫の7人の妻が葬られているという。
6世紀の古墳としては、東日本最大級のもの

Wikipediaより~奈良時代に多胡郡郡司となった羊太夫は、のちに謀反を図っているとして朝廷から討伐軍を差し向けられ、居城の八束城から逃れた羊太夫の一族が落ち合った場所が「落合」という地名になり、羊太夫の妻女ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せて葬ったので「七輿山」という名前になったという。
なお、多胡碑に記される多胡郡郡司の任命は8世紀初頭のことで、古墳築造推定年代の6世紀前半とは合致しない。
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★多胡薬師塚古墳
尾崎喜左雄氏が羊太夫の墓と推定した。

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★「大島の火まつり」
毎年8月16日に富岡市大島の城山北面で行われる。
大島の城主・羊太夫宗勝の霊を慰めるために始めたのが、まつりの起源。

羊太夫(ひつじだゆう)伝説に魅せられて③秩父編

2015.01.06.Tue.15:43
埼玉県秩父方面の羊太夫伝説地

★聖神社は和同開珎ゆかりの神社です。
秩父市和銅保勝会 ホームページをもってしっかり活動している。
こちらから
会報8号は「羊太夫の伝説をめぐって」
和銅遺跡のある羊山(ツジ山)には、羊太夫が採掘したといわれる採鉄鉱跡がある。
和銅遺跡めぐりミニツァーはこちらへ
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★札所一番四萬部寺 羊太夫が納経した経塚がある。

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★札所32番法性寺には、羊太夫が納めたとされる大般若経がある。

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★小鹿野町「16地区」には「お塚」という羊太夫のお墓があると伝えられている。
小鹿野町指定史跡
上円下方墳

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★「お塚」の冬風景
この近くに、羊太夫邸宅跡がある。
次回、一人探検する予定。

羊太夫(ひつじだゆう)伝説④参考文献を歩く

2015.01.10.Sat.11:44

「古墳のはなし」尾崎喜左雄 学生社

今では、誰も知らない鹵簿(ロボ)導事件
~昭和9年に群馬県で行われた陸軍大演習では、演習終了後の巡航で、昭和天皇を桐生市の西小学校から桐生高等工専(現群馬大学工学部)へと案内することになっていた。
ところが先導車が道を間違えて先に桐生工専へつれていってしまい、大騒ぎになった。
いわいる「鹵簿導事件」である。
その発端をつくった警察官は自殺未遂をし、当時の群馬県知事は更迭され、その他、多くの関係者が処分された。
いまでこそちよっとしたハプニング程度と思われがちであるが、当時の天皇の地位は絶対的なものであったから、不敬の極みにあたる大変な不始末であった。
これに替わって、気分一新の命を受けてきたのが「君島新吉」であった。~(抜粋)
その君島知事が先の事件で意気消沈した県民の意識を高揚させるため「全国に誇れる古墳の総合調査」
を研究者等を総動員し、取り組み8423基の古墳の大量な資料が山積みとなった。
この膨大な資料を整理し、報告書としてまとめあげる難作業を誰がやるのかという時
その白羽の矢が当たったのが、尾崎氏だった。
当時の古墳研究はまだ未開の分野だった。
京都大学で考古学の基礎を学んだ尾崎氏は「日本でもっとも古墳の多い群馬の地で、古墳から古代史の資料をとろう」と決意し、群馬に赴任。
二度も召集されながら、古墳の調査・研究に偉大な業績を残した。
氏の鞄の中には、常に岩波文庫の「古事記」「日本書紀」がおさめられていたという。

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「多胡の古碑に寄せて」井上清 長谷川寛見共著 あさを社

井上氏は地元の研究者で、元教師、退職後は郷土資料館に勤務した。
地元の遺跡の調査・発掘から唯一残されている「日本書紀」「続日本記」の文献を照合して
羊は個人ではなく「羊集団」。
新羅から来た渡来人集団であると判定。
朝鮮半島と日本を行ったり来たりしていた古代の大豪族 上毛野君(かみつけのきみ)が、新羅に遠征し、捕虜として連れ帰った人々であるという。
国分寺に住んでいた古代瓦の収集家 住谷修氏から関越自動車道国分寺エリアから「羊神人宿小稲麻呂」とヘラ書きした瓦が出土し「タクシーで来い」と言われ駆け付けたくだりは目に浮かぶ。
お二人とももうこの世にいないが、生きていれば何時間でもお話を伺いたい・・・
米寿で「天皇家とユダヤ人」「上野国の渡来文化とペルシャ」を読むその精神の若さに脱帽。

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「辛科神社と羊の伝説」 宮司 神保茂一郎 禰宜 神保侑史(平成2年御大礼記念)

~羊の太夫にまつわる伝説は多胡郡開拓の盛衰を語る伝説であるが疾足を伝える八束の小脛は古事記、日本書紀、風土記等に登場する八束脛、七束脛と同じで極めて足の長い人従って足の速い人という意味でありクモとかツチグモとか呼ばれた先住民族(土着民)の特徴を誇張した呼名であったようだ。
上野下野(カミツケシモツケ)という毛の国は御食国(ミケツクニ)即ち天皇の御食料を奉る国と理解することができるが毛人(エミシ)の国を表すともいわれる。
大和武・ヤマトタケル(雄略天皇)の上奏文に「東は毛人五十五国を征す宗書」などとあるから毛の国はその中心であり東国一の大国だったと思われる。
多胡郡は南の山を越えて神流川を渡ると秩父郡でありこの神流川や鍛治、丹生、金井、タタラ沢、金井沢などという地名が吉井町の周辺に散在し製鉄の係りの深い土地であることが立証できる。
羊太夫伝説を語り伝えた人々は自らその子孫と信じた採鉱治金鍛治の徒であったようだ。
また金色の蝶となって舞い上ったということは養蚕に深いかかわりあいがあったようもある。
多胡郡が新設され年に朝廷では、織部司(オリベノツカサ)を諸国に派遣して錦綾(ニシキアヤ)を織ることを習わせたという記録もある。
多胡郡には甘楽郡から織裳郷が移されており養蚕紡績の歴史は古いものと思う。(抜粋)~

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月刊 上州路 特集「今に生きる韓来文化」
「上野国の韓来文化訪問記
羊太夫伝承に誘われて
韓の国 多胡の里へ
熊倉 浩靖」
この歴史紀行文は、素晴らしい。
韓日の古代史にハマり、羊太夫関連の文献を読み漁っていた私に、初めて科学の光が差し込んだような感動を覚えた。
後でわかったことだか、熊倉氏は、私が最も尊敬する歴史学者上田正昭氏の秘蔵っ子とのこと。
ナルホドと納得。


羊太夫(ひつじだゆう)伝説⑤文献を歩く

2015.01.12.Mon.09:39

~誰をも魅了する羊太夫伝説
羊太夫伝説に関連する遺跡・お寺・神社は、数多く存在し、それだけで一冊の本ができる。
事実、羊太夫伝説に魅せられて、遺跡を訪ね歩き本を出版したり論文を発表する研究者が後を絶たない。


~国際的な視野で
「東アジアから見た古代の東国」という国際的な視野で古代史をとらえることが重要だと思う。

1998年に開催されたシンポジウムを書籍化した本だ。
報告講演・シンポジウム「東アジアから見た古代の東国」講演集  上毛新聞社
白石 太一郎  国立歴史民俗博物館副館長・教授
干田 稔     国際日本文化研究センター教授
王 仲殊     中国社会科学院考古学研究所元所長・教授
姜 仁求     韓国精神文化研究院  韓国大学院歴史研究室教授
上田 正昭    アジア史学会会長 京都大学名誉教授 

~単一民族説の弊害
「日本は、単一民族説」の教科書は、民族成立の流動性・多様性を排除し、朝鮮半島への蔑視感を私達に巧妙に刷り込んでいる。
古代において、朝鮮半島とこの列島が一大文化交流圏であった。
※ここにもポイントがある。
中国大陸の文化が、朝鮮半島を経由して入ってきたのではなく、朝鮮半島で独自発酵したより高度な文化が、もたらされたのだ。(朝鮮半島は単なる文化の通過点ではない)
朝鮮半島で動乱が起こるたびに、重層的に列島に渡来してきた人々のもたらした先進的で高度な技術力と文化。
渡来集団のその後の開拓努力により、国の形を創るおおもとができたのだ。
既存の教科書では民族成立の流動性・多様性をイメージできない思考停止した国民を育てていないだろうか?

ある若手の研究者が講演会で「自分は羊太夫の末裔である某名門家の出身であるが、決して朝鮮人ではありません。」
と発言し唖然とした。
講演後の質問で、地元の老人が
「今、先生の講演を聞いて、どうしても納得いきません。
私達は、代々親から~ここの地名は朝鮮からきた祖先たちから伝えられた古いものだから、大事にしておくれ~といわれて、誇りに思って生きてきたのに、先生は関係ないという。
私は、納得できないです。」

「日本単一民族説」と「明治以降の朝鮮半島への弾圧と略奪」
この二つの問題をクリアしないと本当の歴史は見えてこない。
なぜ、蔑視感を持っているのか。
誰によって、蔑視感を巧妙に植え付けられたのか?
今も続く日本の支配者層によって巧妙に刷り込まれた蔑視感。
どのように巧妙に刷り込まれていったのか、まず、探究してみよう。
自分自身への自戒の意味も込めて・・・
二度と愚かな過ちを繰り返さないためにも・・・・

~インターナショナルなメンバーで
教科書を作る時も御用学者だけでなく、上記シンポジウムに集ったようなインターナショナルなメンバーによって協議して作っていただきたい。
そうすれば、ただの暗記だけの無味乾燥な教科書ではなくなり、真の国際人が育つ教科書になるだろう。

群馬史再発見-1
~キラリッ光る熊倉氏
いろいろな研究者がいる中で④にもあるが、熊倉浩靖「上野国の韓来文化探訪記 羊太夫伝承に誘われて、韓の国、多胡の里へ」は、短い歴史紀行文ではあるが、ダントツに光っていた。
それは、熊倉氏が、上田氏イチオシの研究者で、やはり、「東アジア」という視点を前提に、この問題を捉えているからだ。
ここでは、「上毛野国から東国へ」という小論文が収まっている。
※この「東アジア」という視点をもたないと、戦国時代・江戸時代と混乱して大変、「残念な」結論になってしまう。
いくら遺跡を訪ねても 何冊資料を読んでも、この視点が欠如している為に、「残念な」結論になっている研究者が多い。


~古代豪族 上毛野氏の繁栄
上毛野氏という古代の豪族は、朝鮮半島と列島を行き来し繁栄した。
そこから東国が生んだ貴族たち「東国六腹朝臣」が派生し、古代の上毛野の繁栄の基礎を築いたということがわかる。
その「東国六腹朝臣」のDNAがこの1600年位の間に、営々と在来の人々と繁殖を繰り返し、くまなく私達のDNAに刻みこまれているのではないだろうか。

古代東国の王者-1
~力作は高かった。
その熊倉氏の力作 実にお高いお値段で、一瞬買うのを躊躇したが、やはり、買ってしまった。当時5600円 
上毛野氏の研究 その中にP767実に手短に、要領よく、ズバリ的を得た文章がある。

「しかし、養老5年(721)11月23日という日付は妙に生々しい。多胡郡設置後おおよそ10年の時期である。」
つまり、羊太夫が討たれたのは、建郡から10年後ということだ。
しかも、井上清著の「多胡の古碑に寄せて」の羊太夫の年表によると羊太夫27歳。
~「多胡郡」として建郡した高度な技術をもった渡来系の人々と「国家」の間に齟齬が生じてくる。
なぜなら、そこには渡来系住民を「諸藩」とらえる倒錯した国家意思が存在するからだ。
したがって、多胡郡住民と国家中央との間に葛藤が生じ、その爆発を想像力の世界で描ききった伝承が「羊太夫伝承」であるとしている。~ (要約)

~歴史とは
歴史は勝者のものなのだ。
敗者は、正史に残れない。
多胡の里の人々は、正史を残すことを禁じられていたのだ。

~深い知恵が
しかし、多胡の里の人々は、地名にして伝えてきた。
伝承というお話にして、語り継いできた。
「非科学的だ」「子供じみている」と言われようと、伝説として残すしか手段がなかったのだ。
そして、伝説の中に多胡の里の人々の深い知恵が秘められている。

~羊は永久に
だから、羊は生きている。
これからも、永遠に生き続けるであろう。
多胡の里の人々が、語り伝えた羊太夫伝説の中で

ここまで一緒に歩いてくれてありがとう。君に感謝!