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福井の新羅神社

2018.04.12.Thu.09:59
言葉の語源 その117

皆さん、日本には新羅渡来人にまつわる神社が沢山ありますが、特に福井県には驚くほど沢山ありました。今日は2年前に書いた福井の新羅渡来人にまつわる神社と地名のお話の続きをお話ししようと思います。

福井県の県央部には「今庄(いまじょう)」と言う造り酒屋とおそばが有名な小さな谷間の宿場町があります。この今庄(いまじょう)の地名を調べてみると、大変面白い事がわかりました。元々は「今庄」を「今城」と漢字表記しておりましたが、本来は「白城(しらき)」と言う地名で、それが誤記され「白城」が「今城」になってしまいました。そしてその「白城」の地名を調べると、元々は「新羅(しらぎ)」でありました。つまり今庄は「新羅(しらぎ)」→「白城(しらき)」→誤記されて「今城(いまき)」→「今城(いまじょう)」→「今庄(いまじょう)」と変わって行きました。

この今庄には「日野川(ひのかわ)」が流れておりますが、その源流は今庄駅から20km弱さかのぼった「夜叉ヶ池(やしゃがいけ)」です。この夜叉ヶ池、古くは「尸羅池(しらいけ)」と呼び、その語源は「新羅池」でした。更にこの夜叉ヶ池のほとりには昔、「新露貴神社(しろきひこじんじゃ)」が鎮座しておりましたが後に移転して「信露貴彦神社」となり現在は敦賀に神座しております。これも元々は「新羅」が語源だったそうです。

さて、今庄の西側の高台には「新羅神社(しんらじんじゃ)」と「白鬚神社(しらひげじんじゃ)」が鎮座しておりますが、どちらも新羅渡来人が祀った神社で、江戸時代には「新羅神社(しんらじんじゃ)」を上の宮、「白鬚神社(しらひげじんじゃ)」を下の宮と呼んでおり二社が密接な関係でありました。「新羅神社(しんらじんじゃ)」は元々「新羅明神(しらぎみょうじん)」と呼ばれており山の頂上に祀られておりましたが、移転を機に「白城神社(しらきじんじゃ)」にかわり、後に「しらぎ」が「しんら」と呼ばれるようになり元の漢字に戻され「新羅神社(しんらじんじゃ)」になりました。またこの神社を調べてみると、新羅、高句麗、百済の祖神を祀ったともありました。つまり、新羅渡来人だけでなく、福井に渡来した高句麗、百済の朝鮮半島渡来人達が祀った神社だったんですね。

今庄駅から南に2.5km程日野川を遡ると合波と言う集落があります。このはずれに「白髭神社(しらひげじんじゃ)」が鎮座しておりますが、元々は「白城神社(しらきじんじゃ)」でした。またこの神社の左手裏に10mほどの「信露滝(しろたき)」があります。そう、お分かりの通りこの神社も滝の名前も語源が「新羅」なんです。

またこの白髭神社からさらに日野川を1.5kmほどさかのぼると「荒井」と言う小さな集落があります。この集落の一番奥には「新羅宮(しらぎぐう)」と言う神社が鎮座しております。この新羅宮は「南条郡誌」に、「信露貴彦神社或は堺村荒井の新羅神社ならん乎。」と書かれておりました。つまりこの新羅宮は夜叉ヶ池に元々あった「信露貴彦神社」と密接な関係であったと言う事がわかりますね。

他にも新羅が語源である神社、新羅渡来人が祀った神社、地名、伝説、言い伝え等が福井には沢山あります。

次回もまた、「新羅」が語源のお話をしようと思います


今庄の「新羅神社(しんらじんじゃ」鳥居
今庄の「新羅神社(しんらじんじゃ)」拝殿
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今庄の「新羅神社(しんらじんじゃ)」本殿
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今庄の「白鬚神社(しらひげじんじゃ)」鳥居
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今庄の「白鬚神社(しらひげじんじゃ)」拝殿
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合波集落の「白髭神社(しらひげじんじゃ)」拝殿
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合波集落の「白髭神社(しらひげじんじゃ)」左奥にある、「信露滝(しろたき)」
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合波集落の「白髭神社(しらひげじんじゃ)」由来書
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荒井集落奥にある「新羅宮(しらぎぐう)」鳥居
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荒井集落奥にある「新羅宮(しらぎぐう)」拝殿
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熊倉先生の講義

2018.03.16.Fri.09:12


第35回高崎わたしばなし
〜熊倉 浩靖さん(群馬県立女子大学 教授)〜

トランプと日本と相撲

2018.03.02.Fri.09:31
嘘みたいな本当の歴史話㉞

皆さん、世界の注目の人物と言ったら、アメリカのトランプさんですね。今日は旬ネタ、トランプの人物像の「嘘みたいな本当の歴史話」でもしようかと思います。

前回お話しした「保渡田八幡塚古墳(ほどたはちまんづかこふん)」の王の埴輪達。よく見ると共通するいでたちだと言う事、おわかりでしょうか?埴輪をよく見ると、首の周りの丸い物(宝石)、腰の派手なベルト、長い剣、そして王冠や派手なかぶり物。古代の王は権力の象徴としてこれらを身にまとって着飾っていたと言われております。そしてアメリカのトランプのみならず、全世界のトランプのキング(王様)の図柄もこれに似ていると思いませんか?

実はこの姿、朝鮮半島の王様の姿なんです。この王の着飾った姿は朝鮮半島を南下して渡来人と共に日本に伝わり、もう一方ではアジアを経て風俗と共にヨーロッパに伝わりました。古代西洋の王は王冠はかぶってはおらず着飾ってもおらず、朝鮮半島の王の絢爛豪華な服装が段々と西へ伝わり、西洋の王は世界で使われているトランプのキングの様な王の姿になったそうです。ちなみに余談ですが、トランプのキングは四種類ですが、4人の実在する歴史的王をヨーロッパ調に模した姿なんです。

さて、続きまして今話題の相撲界。相撲っていつからあるのかと言うと、そのカギが埴輪にありました。埴輪の中に一体の力士の埴輪があります。この埴輪、よく見るとあるものに酷似ている事はご存知でしょうか?それは現在の朝鮮民主主義人民共和国黄海南道安岳郡にある「安岳三号墳(あんがくさんごうふん)」、韓国朝鮮名で「안악제3호무덤(アナッチェー3ホムドム)」と言う高句麗時代の古墳の壁画に描かれた「シルム(朝鮮相撲)」の格好にそっくりなんです。相撲は中央アジアで生まれた神事的拳術と言われ、朝鮮半島に伝わり発展して日本には古墳時代に渡来人と共に伝わったと言われております。ちなみに古墳の力士の埴輪は、邪悪な力から被葬者を守る魔よけのために置かれたのではないかと言われております。

さて、最後にお話しするのは「日本」です。中国の唐が滅亡した後、唐の建国から滅亡までを書いた「旧唐書(くとうじょ)」と言う古文書が書かれました。そこには朝鮮半島の事や日本列島の事まで書かれておりますが、日本列島には「倭國(わこく)」と「日本國」と言う別々の国があったと記されておりました。「倭國」は言わずと知れた近畿圏を中心とした古代の国の名前ですね。では「日本國」はどこにあったのか?旧唐書には「日本國は元々小国であり日のいずる方角にある」とありました。つまり倭國よりも東の方角にあると言う事です。以前この事をテレビで特集していたんですが、大型古墳が数多く存在する事で、場所は群馬県と埼玉県北部(行田市)にまたがる地域ではないかと言っており、渡来人の王国であったとも言っておりました。この旧唐書は解釈によっては見解が色々ありますが、埼玉、群馬を中心とした王国が古代日本國だと言う事は興味がひかれるお話でしたし信憑性もあったと思います。
こんな角度から歴史を見ると、とても面白いですね。

いかがでしたか今日の「トランプと日本と相撲」の嘘みたいな本当の歴史話。
信じるも信じないもあなた次第です。
次も群馬ネタで・・・
では、また次回・・・
王の埴輪の共通点。
・派手な王冠や被り物
・首回りの丸い物(宝石)
・派手なベルト
・長くまっすぐな剣
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王の埴輪とトランプのキングの共通点
・王冠
・宝石
・派手なベルト
・長くてまっすぐな剣
これらは朝鮮半島の王の姿が伝わった物です。
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力士の埴輪
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朝鮮民主主義人民共和国黄海南道安岳郡にある「安岳三号墳(あんがくさんごうふん)」、韓国朝鮮名で「안악제3호무덤(アナッチェー3ホムドム)」と言う高句麗時代の古墳の壁画。
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群馬県高崎市にある大型古墳(前方後円墳)
保渡田八幡塚古墳(ほどたはちまんづかこふん)
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埼玉県行田市にある大型古墳(円墳)
丸墓山古墳(まるはかやまこふん)
映画の「ぼうの城」にも登場した古墳です。
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埼玉県行田市にある大型古墳(前方後円墳)
将軍山古墳(しょうぐんやまこふん)
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読者 つまり相撲は朝鮮が発祥の地ってことなのかな?

金さん 発祥はモンゴル付近ですよ。
日本に伝えたのが朝鮮半島の渡来人って事です!!

上野三碑(こうずけさんぴ)

2018.03.02.Fri.09:21
嘘みたいな本当の歴史話㊱

皆さん、群馬県高崎市には昨年、ユネスコの世界の記憶(世界記憶遺産)に登録された古い三つの石碑があるのをご存知ですか?以前「多胡碑(たごひ)」のお話をしましたが、それを含めた3つの石碑の事です。今日はこの世界遺産の石碑のお話をしようと思います。

さて、この三つの石碑はまとめて「上野三碑(こうずけさんぴ)」と言います。古代群馬県は「上野國(こうずけのくに)」と呼ばれていた所からそう名付けられました。三つとも半径2kmの範囲内にあり各々碑には名前があります。吉井町は「多胡碑(たごひ)」、山名町は「山上碑(やまのうえひ)」、「金井沢碑(かないざわひ)」と言います。

この三碑、何がすごいのかと言うと、日本には古代碑が18柱ありますが、その中でも最古級な古代碑がこの「上野三碑」なんです。そればかりではなく、この「上野三碑」の記録形態が朝鮮半島渡来人がもたらした物、つまり朝鮮半島渡来人が作った石碑なんです。これは高崎市の上野三碑のホームページにも書かれている事実です。

「多胡碑(たごひ)」は711年に建てられましたが、そこには「朝廷の命令により、上野國片岡郡、緑野郡、甘良郡から三百戸を分割して新たに郡をつくり、羊を統治者とする。郡名を多胡郡とする。」と刻まれております。「羊」とは名古屋の「羊神社」を創建した、新羅渡来人「多胡羊太夫(たごひつじだゆう)」の事なんです。「胡」は渡来人と言う意味でここで言う朝鮮半島渡来人の事、「多」は文字通り多いと言う意味、「郡」は行政区分の名称、つまり朝鮮半島渡来人が多く住んだと言う意味でこの地を「多胡郡」としたそうです。

「山上碑(やまのうえひ)」は日本最古の石碑で681年に建てられました。形式は新羅形式で新羅の石碑と酷似しております。内容は「放光寺(ほうこうじ)」の僧侶「長利(ちょうり)」が母「黒売刀自(くろめとうじ)」のために建てた事と、父方、母方の家系が刻まれております。系譜の名前からして、どうも渡来系の氏族の様です。そしてこの石碑の隣には古墳がある事から、この古墳は「黒売刀自」の古墳ではないかと思われております。しかし古墳の年代が石碑よりもやや遡る事から、元々「黒売刀自」の先代が眠る古墳に「黒売刀自」が追葬(後からさらに埋葬)されたのではないかと思われております。

「金井沢碑(かないざわひ)」は726年に三家(みやけ)氏が先祖と一族の繁栄を願って建てた石碑で、内容は先祖の系譜と一族の説明が刻まれております。この系譜を見ても渡来氏族の名前が出て来る事から、これを建てた人物も渡来氏族かその末裔だった事がわかります。

世界遺産に認定された三つの古代石碑が、朝鮮半島の形態で渡来人の事を刻んでいた。いかに多くの渡来人が群馬に渡って来たのかがわかりますね。何だか悠久のロマンを感じますね。
群馬のお話は、これで一旦終了します。
また群馬を散策した時にでも、続きを書こうと思います。

いかがでしたか、今日の「上野三碑」と渡来人お話。
信じるも信じないもあなた次第です。
では、また次回・・・

多胡碑
西暦711年に建てられました。
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山上碑
西暦681年に建てられました。
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金井沢碑
西暦726年に建てられました。
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山上古墳(やまのうえこふん)
山上碑の真横にあります。
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山上古墳案内板
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「車持君」は渡来人

2018.02.16.Fri.08:43
嘘みたいな本当の歴史話㉟

皆さん、群馬県と言ったら何を連想しますか?自分は小さい頃、群馬と言えば大草原に何千頭もの馬が放牧されているそんなイメージでした。それとやはり「かかあ殿下と空っ風(群馬は女性と吹き降しの風が強いと言う意味)」、「国定忠治」ですね。小さい頃、オモニ(母)のスカーフをマントの様に首に巻いて、新聞紙をクルクルクルっと丸めた刀を作って、「赤城の山も今宵限り、かわいい子分の手前達とも・・・」なんて国定忠治を真似てチャンバラごっこした記憶があります。そんな話は置いといて・・・

さて、群馬の県名の由来は、古代この地域を「車評(くるまごおり)」と呼んでいた所に由来します。「評」とは「郡」と一緒で行政区分を表す言葉で、「車評」は後に「車郡」に代わり、この地名は江戸末期まで使われます。明治に入り、「車郡」が「群馬郡」となり、「群馬県」になったわけです。

では「車」とはなにか。それはここを治めていた「車持君(くるまもちのきみ)」と言う人物の名前が由来だと言われております。「車持君」は馬を多く献上したところからその姓を拝領したとあります。そう、「車」とは乗り物、つまり「馬」の事なんです。群馬県一帯の古墳からは多くの馬具や馬骨が出土しており、この地域で多くの馬が飼われていた事がわかっております。更にその馬は渡来人が朝鮮半島から持ってきて、この地で育て増やしたと言われております。一説には「車持君」は渡来人とも言われております。

それからもう一つ、この地には朝鮮半島からの渡来人が多く住み、「呉人(くれびと)が多く住む地」と言うことから「呉人」が「車」になったとの説もあります。「呉人」は朝鮮半島南部の「求礼(クレ)」、もしくは高句麗の「句麗」の事を言います。「車持君」説と「呉人」説、二つの説はかつて国語辞典にも載っておりましたが、県名の由来はどちらか「定かではない」そうです。ま、どちらにせよ、県名の由来は渡来人にまつわるって事ですね。

そうそう、高句麗と言えばこの群馬県にも、高句麗渡来人が来た証が幾つか残っております。代表的な物は高崎市箕郷町下芝にある「下芝谷ツ古墳(しもしばやつこふん)」です。この古墳、榛名山の火砕流で埋もれてしまいましたが、掘り起こしてみると巨大な石積み式の方墳(四角い古墳)でした。実は方墳は高句麗特有の古墳で石積式も高句麗式なんです。そしてここからは馬具類、甲冑、装飾品と言った豊富な副葬品が出土しました。中でも金銅製の「飾履(装飾を施した靴)」は大変珍しく、日本でまだ15例しか見つかっておりません。この靴は足の裏までガラスを埋め込み装飾されており、履いて歩くための物ではなく死者の為に履かせる靴で、古墳の被葬者が大変権力を持った者だと言う事がわかります。この他にも、高崎市にある高崎市立西部小学校隣の剣崎長瀞西遺跡からも方墳がいくつか見つかっており、群馬県には多くの高句麗系渡来人が入植した事がわかります。

いかがでしたか今日の「群馬県」のお話。
ちなみに我がアボジ(父)は生前、「我が家はかかあ殿下で、女房にあたまが上がらんばい。」って言ってました。古代も現代も、朝鮮半島から渡来した女性は強い・・・って事・・・
信じるも信じないもあなた次第です。
ではまた次回・・・


高崎市箕郷町下芝にある「下芝谷ツ古墳(しもしばやつこふん)」
榛名山の火砕流で埋まってしまい、上部が少し見えるだけになってしまいました。
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下芝谷ツ古墳(しもしばやつこふん)の地下を掘って、古墳の発掘調査をした写真です。
これだけ火砕流で埋もれてしまいました。
比較のための人の影が右上にあり、古墳の全景が右下にあります。
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古墳の案内板
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博物館の案内板
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古墳から出土した金銅製の「飾履(装飾を施した靴)」(レプリカ)
日本では15例しか出土しておりません。
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同じく反対側の金銅製の「飾履(装飾を施した靴)」
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金銅製の「飾履(装飾を施した靴)」(復元品)
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飾履の説明板
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高崎市にある高崎市立西部小学校隣の剣崎長瀞西遺跡。
目の前の古墳は剣崎長瀞西古墳。
手前の広場奥に、方墳が数基ありました。
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フェイスブックみんなの声
私    ・この飾履の美意識の高さには、感動ですね。どんな王だったのだろうと想像します。
金    ・自分も古代に思いが馳せります。
      騎馬民族の王様、想像するとワクワクしますね。(≧∀≦)
私    ・現代の私達より、精神的には、豊かだったでしょうね。

S     ・凄いですね〜(o_o)馬がたくさん飼われていて、馬関連の物がたくさん見つかっているという由来は聞いていましたが、        詳細は初めて知りました!(◎_◎;)靴はかなり高価な物のようですね(≧∇≦)
金    ・火山地帯なので農業には適さないけど放牧にはいい所だそうですよ。
       広大な牧草地だったそうです。
      靴は高価で権力と富の証。
      今の時代でいくらくらいするんでしょうかね?

H     ・金さんいつもながら興味深いお話、面白く拝読させて頂きました。
馬といえば、大阪と奈良県を分ける生駒山がありますが、古代は生駒山の裾野で馬を放牧し育てていたところから生駒山と呼ばれるようになったといいます。まだ大阪平野がない頃、生駒の裾野まで河内湖が迫っていました。裾野を走った馬たちは河内湖の水を飲んだと思います。生駒に近い寝屋川市には秦という地名がありますが、渡来人と関係があるかに聞いたことがあります。生駒山に近い、八尾市、東大阪市、大東市、四條畷市、交野市、枚方市の線は古代史に様々残るものがあります。王仁博士などはその一人です。
まだまだ、大阪の古代史まで至りません。近世で精一杯です。🤗👋


生駒の方は確か百済の渡来人達が馬を飼っていたと聞きました。
現在の大阪は、地名や歴史に百済の渡来人の痕跡が沢山ありますね。
寝屋川市の秦は新羅渡来人秦河勝由来の地名と聞いたことがあります。
確かお墓もありますね。
大阪は時代とともに、百済、新羅、高句麗と言った渡来人が沢山いたそうですよ。
百済は大阪でも古い土地で、百済駅もあり、街中です。
河内湖が生駒山近くまで迫り、裾野を馬たちが走る姿を想像すると、なんとも言えないロマンを感じますね🤗👋

H 四條畷市の歴史資料館には、生駒山の裾野から出土した、木棺に入った完全な遺体、馬の化石が保存されています。渡来人だったかもしれません。
私は何度も見ています

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