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安治川隧道

2019.06.19.Wed.08:02
2018年のチャリ旅、九州宮崎県→大阪
8日目『兵庫から大阪、そして台風』

兵庫県相生市から出た私は、一路大阪へと向いました。大阪には私のカミサンの実家と、コモ(父の妹)家族が住んでいます。又お墓参りにもこの旅で行こうと思ってたので、立ち寄る事としました。途中、明石海峡大橋を見て観光を楽しみました。

兵庫県には沢山の朝鮮半島渡来人の痕跡が残っています。また史跡モ数多く保存されており、このたびを通じて行こうと思っていました。しかしこの日のニュースで、ものすごい台風が近づいている事を知るのでした。

とにかく、早く大阪へ向おうと思っていました。しかしそのときです。足に違和感を感じ膝をさすると痛みが走るのです。

ド━━━(゜ロ゜;)━━ン!!
ここまで来て、疲労が足に??と思うや否や膝を曲げ伸ばしするだけでも激痛が走りました。もう今年で50歳、昨年のこの旅の時期は49歳を迎えていました。1日約180kmは平均は知っていましたし、そろそろ限界だったのかもしれません。気持ち的には北海道まで行ってやろうと思っていたのですが、私の足も限界を迎えていたのでした。

とりあえず痛みを堪えながらも、大阪に向っていました。

大阪に入るとある川にぶつかったりました。名前は『安治川:あじかわ』です。渡ろうとすると橋は自動車専用で自転車歩行者は渡れませんでした。

ウ・・ ウ~ン(・_・;)困った…

道をそれ、別の橋を探していると、ひょんなことから『安治川隧道:あじかわずいどう』という場所に行き着いたのです。

何とここは、安治川を渡るための地下道だったのです。
オォォーーー!! w(゚ロ゚;w(゚ロ゚)w;゚ロ゚)w オォォーーー!!

九州と本州を結ぶ地下道『関門トンネル』を渡ってきた私としては、水の中を渡って通るトンネルと2回目の遭遇となりました。このとき即Googleで検索するととても歴史深い事実を知るのでした。

全国で珍しい川底を渡る『安治川隧道:あじかわずいどう』は、1944年の戦時中に作られ、大阪市民の通り道として、利用されてきたようです。現在は人と自転車が通るトンネルでしたが、昔は車もここを通っていたようです。24時間通る事が可能で、トンネルは関門トンネルのように長くは無くとも全長約80mで、幅は2.4mの川底を通るトンネルです。昔は幅が短い川に橋を通すと船が通れない事、さらに橋を通すには高さが作れない事などから、地下道を堀り開通させたようです。

大阪にこんな場所があったと走らず偶然とはいえ面白い発見をしました。この後、私は無事に大阪のコモの家族と会い、同級生や、大阪の仲間と夕食を取りました。他にも沢山知り合いが居たのですが、申し訳なくこの日は少人数で会いました。次の日はハルモニのお墓参りをし、東京へと帰りました。

足の痛みもありましたが、何より台風の影響を恐れ、皆に「家に帰りなさい」と助言をもらい帰った事が、台風に巻き込まれなかった良い教訓となりました。実際、このあと来た台風は、大阪中に多大な被害を与えたのですから…

こいして私の『九州宮崎県→ひたすら北へ・チャリ旅キャノンボール2018夏』は終わりを迎えるのでした。

又近々、昨年2018.12.16に行った旅話や、2019.1.25に行った旅話しを書こうと思っております。もちろん日本と関係する『朝鮮半島の史跡巡りの旅はなし』です。又のご愛読よろしくお願いいたします。

ご清聴ありがとうございました。
<(_ 深々 _)>

(o^-')b To be continued…

5.大阪の中の関門橋??
安治川隧道に偶然到着しました。ここは川を超えるために橋では無く、トンネルを掘ってしまったところです。いざ川底へ!
(☆Д☆)キラリーン♪ー 場所: 大阪市
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6.関門トンネルと同じように安治川隧道もエレベーターで降ります。ここには3台のエレベーターがあったとか。一台は車専用のエレベーターで、車も隧道を通ったようです。
(・0・*)ホ,(゜0゜*)ホ--ッッ!!!ー 場所: 大阪市
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7.現在の安治川隧道は歩行者や自転車のためのトンネルとなっています。
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8.安治川隧道はこのように昔は車まで通れる川の底の道でした。凄いです!
(ノ゚ο゚)ノ オオオオォォォォォォ-
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鞆の浦  朝鮮通信使

2019.06.18.Tue.09:41
2018年のチャリ旅、九州宮崎県→大阪
8日目『広島から岡山、そして兵庫』

広島県福山で一泊した私は、この日の目標を兵庫県と定め、走り出しました。しかしこの日はどうしても行きたい場所があり、一旦南へと向かったのです。

福山駅から南へ約14kmに『鞆の浦:とものうら』という港町があります。この小さな港町は、実はとんでもない歴史が動いた場所であり、歴史的な事件事故を目の当たりにしてきた町でもあります。

江戸時代、この港に朝鮮通信使が立ち寄った『福禅寺:ふくぜんじ』があります。さらにその一昔まえ、初代・足利尊氏がこの港で作戦を立て、京都へとのぼり勝利し足利幕府を立てた拠点でもありました。その後、15代・足利義昭将軍は織田信長に追放され、この港町に住み、小さな鞆幕府を立て、細々と暮らしたそうです。

幕末のころは坂本竜馬がこの港に立ち寄った事もあり、その後竜馬の船『いろは丸』が、紀州藩の船『明光丸:めいこうまる』に激突し、裁判になった場所でもあります。

この港が現代になり、ある人物が立ち寄った場所でもあります。有名なアニメ映画監督:宮崎駿です。彼は次回作を考えているうちに悩み、この町に立ち寄ったそうです。2ヶ月間ここで生活した宮崎駿監督はここで『崖の上のポニョ』を考え作成、のちに発表となったのです。

こういった歴史的場所である『鞆の浦』、昔は一文字で『鞆』だけだったそうな。早朝に訪れた私は、まだお寺も開いていないので、もうひとつ尋ねたい場所へと移動しました。鞆の浦から西南へ約11km、広島県福山市沼隈町中山南481あたりなのですが、ここに『高麗神社』があるようなのです。地図で見つけ、いつか行こうと思っていたので良い機会なので向いました。

神社へ行くと何も書いておらず、聞くにも人が見当たりません。写真を何枚か撮り、また鞆の浦へと戻りました。ちょうどそのころ『福禅寺:ふくぜんじ』が開門し、中に入る事ができました。中に入ると朝鮮通信使がきたことを誇りにし自慢気の様に、朝鮮通信使の説明文一色でした。
(☆Д☆)キラリーン♪

そして窓から見える景色は流石です。この景色を約400年も前の朝鮮通信使が見て感動して『日東第一景勝(この東の国の中で一番の景色である)』と表現し、文字を残した事がわかりました。案内のボランティアさんの話によると、このお寺はしっかりと東西南北に分れ、日が昇り落ちるまで、見れる構造になっているそうです。

景色を1時間ほど眺め楽しんだ後、少し鞆の浦の町を散策し、又東へと向かいました。私は、とりあえず岡山県倉敷市に向いました。昔ながらの友だちのアダ名はペレ『シンカップチョル』と後輩の『カンチソン』に会うためでした。岡山県でも有名な繁盛店『焼肉・香洛園:こうらくえん』に立ち寄り、オーナーのカップチョル、後輩のチソンと何十年ぶりに会いました。昼時を友だち後輩とすごし、また旅に出ました。

立ち寄る場所はもう無く、後はここからひたすら自転車を漕ぐだけでした。鞆の浦から約130kmの相生駅で宿を取り、この日は就寝しました。

(o^-')b To be continued…

1.広島県にある『鞆の浦:とものうら』に到着です。とても小さな港町ですが、年中観光客でごった返します。早朝は静かで、とても良い港町でした。ー 場所: 広島県 福山市
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3.幕末に坂本竜馬がこの鞆の浦に訪れています。のちに船の事故をし、紀州藩から莫大な損害賠償金を受け取っています。
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5.鞆の浦をモチーフに、崖の上のポニョを作成した宮崎駿監督ですが、映画発表後は鞆の浦が関連していることは明かしませんでした。彼の発言で鞆の浦がモデルだという事を知れると、観光客が倍増し、町が汚れる事を恐れたからだそうです。現在も鞆の浦に対し、彼は多くの支援をしているそうです。
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8.鞆の浦から西北に高麗神社があるという情報を得て、立ち寄りました。ー 場所: 広島県 福山市
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6.足利尊氏将軍。覇権争いで負け、京都から撤退後、鞆の浦まで落ち延び、作戦を建て直し、京都に向かい勝利します。それから足利幕府を建て、初代将軍として君臨するのです。
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7.足利幕府最後の将軍、足利義昭。織田信長との争いに負け、京都から追放されます。のちに逃れたのがこの鞆の浦でした。初代の尊氏がここから勝利し、最後の義昭はこの地で没したという足利家の数奇な運命を知る、鞆の浦の町なのです。
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35.鞆の浦と朝鮮通信使の、深く、友好な時代と関係を、パンフレットで置いてありました。これは勉強になります。
( ̄∇ ̄(_ _( ̄∇ ̄(_ _ ) ウンウンー 場所: 広島県 福山市
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海の道と松濤園 写真は後日

2019.06.14.Fri.08:28
李創建
5月19日 11:25 ·
2018年のチャリ旅、九州宮崎県→大阪
7日目『広島から岡山、そして広島の中の松濤園』

早朝4時起床から、なんやかんやして5時出発です。昨晩の宿から出た私はわくわくしながら一路東へと向いました。この日はとても楽しみな場所に行くので、朝からテンションマックスでした。

呉の町、海岸沿いを走っていると至る所で、軍服姿の自衛隊の方に出くわしました。呉は海上自衛隊や基地の駐屯上があるからなのです。途中、海上自衛隊の資料館もありましたが、目的はここではなかったので通り過ぎました。海岸沿いということもあり、左の方は山の崖でした。やはり台風の影響からか、壁は至る所で崩れていました。そのため道は片道だけとなり、車もかなり混雑してました。

途中、厳島神社と関わりの深い『亀山神社』にも寄りました。

海田市駅から約35km、やっと着いたのが『安芸灘大橋:あきなだおおはし』に到着しました。ここから先は『下蒲刈島:しもかまがりじま』へと入っていきます。ここから『とびしま海道』と『しまなみ海道』を縦断&横断するのです。広島県と四国愛媛県を結ぶ『しまなみ海道』は自転車で縦断できることから有名な道ですが、実はその道をさらに東西へと結ぶ『とびしま海道』の事は、知らない方も多々居るようです。今回私はこれを両方とも制覇する予定でした。

さらにはこの『とびしま海道』は島を繋げている橋の横に『松濤園:しょうとうえん』という朝鮮通信使が立ち寄った場所が残っています。これが今回のメインでした。松濤園は朝鮮半島北部にもある海水浴場ですが、下記のように、この日本にもいくつかあります。
↓↓↓↓↓↓↓
広島県呉市下蒲刈町下島2277−3 松濤園
福岡県柳川市新外町 松濤園
福岡県福岡市西区今津 松濤園
東京都大田区池上1丁目2 池上本門寺内・松濤園

『安芸灘大橋:あきなだおおはし』を超え、しばらく走ると『松濤園:しょうとうえん』が見えてきました。松濤園の外には「ユネスコ世界記憶遺産登録・祝!」の登り旗がたくさん並んでおり、今回の世界遺産登録を島全体で歓迎していた気がしました。ここで館内を観光しましたが、凄い資料のオンパレードで、言葉では表せない状況でした。

この松濤園ではここでしか手に入れられないお酒が売っています。その名も『忍冬酒:にんとうしゅ』です。約300年前に来た朝鮮通信使も飲んで美味い!と言ったとか。残念ながらこの日は品切れで購入できませんでした。
(x_x;)シュン

朝鮮通信使を楽しんだ私は、とびしま海道の路を漕ぎ始めるのでした。アップダウンもありましたが、ほとんどが海岸沿いでした。『下蒲刈島:しもかまがりじま』から『上蒲刈島:かみかまがりじま』へそして『豊島』→『大崎下島』→『岡村島』へと到着しました。ここからしばらく愛媛県内です。そしてフェリーで愛媛県の『大三島の、しまなみ海道』へ渡ります。

船が来るまでフェリー乗り場で昼食と休憩を取っていると、港で働くおじさんが声をかけてきました。「自転車の旅ですか?どこから?ほー、下蒲刈島からかい。でもあんたラッキーだったね。今まで道を見てきたから分るだろうけど、台風の影響で道路工事をするので、明日からこの『とびしま海道』は、全面通行止めになるんだよ。」
ド━━━(゜ロ゜;)━━ン!!

1日ずれていたらと思うと、本当にラッキーでした。フェリーに乗り、『大三島:おおみしま』に到着。ここからは『しまなみ海道』を進みます。道には青い線が引かれており、迷わず島へと行ける優しいオモテナシを受けました。今度は、しまなみ海道を一旦南へと向かい、愛媛県大島の中にある『村上水軍博物館』による予定でした。

しばらく走ると『パン!』と音が鳴り前輪のパンクです。いつものようにチョチョイノチョイと直し走らせました。しかしまた『パン!』と音が鳴り今度は後輪のパンクです。またチョチョイノチョイと直し走らせました。ところが又、『プシュー!』と音が鳴り前輪のパンクです。三回目です。一個のタイヤに大体40分ほど修理なので2時間のロスです。精神的にも参ってきました。勿論、日も暮れてきました。半泣きです。
(T-T) ウルウル

路は街灯は無く、このままでは島のどこかで野宿になるような気がしてきました。携帯電話で観光案内に連絡し、この状況を説明すると、
大三島から先の島『生口島:いくちじま』から本州の三原港に船で行ける事を教えていただきました。ここからは太陽との勝負でした。

やっとの思いで自転車を漕ぎ、港に着くと無人港でした。しばらくすると観光客も増え、船に乗り本州へと向いました。この時はもう、『村上水軍博物館』へ行けなかった事や、しまなみ海道を制覇できなかった事が、悔しく思えてきました。ただ島と島の間を進んで行く、船の景色が心を癒してくれました。

日がどっぷりと暮れる頃、本州に着いた私はライトを点け、今夜中に行こうと決めていた『広島県福山』に向いました。

(o^-')b To be continued…

1.今回走った地図です。とびしま海道から、しまなみ街道を走る予定でしたが、トラブルで走れなかった場所も…
(T-T) ウルウル
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5.厳島神社と関わりが深い亀山神社です。しかし境内にはそのようなことや、渡来人との関わりを示すものがありませんでした。
ウーン (Θ_Θ;)困ったもんだ。ー 場所: 広島県 呉市
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13.この日のメイン『松濤園:しょうとうえん』に到着しました。ここに昔、朝鮮通信使が立ち寄りました。ー 場所: 広島県 呉市
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15.松濤園に入ると沢山の石像が出迎えてくれます。ー 場所: 広島県 呉市
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厳島神社へ 祝詞は古い朝鮮語!

2019.06.06.Thu.07:19
2018年のチャリ旅、九州宮崎県→大阪
6日目その2『山口から広島へ、そして広島県の中の朝鮮』

山口県岩国を出た私は、ひたすらペダルを漕ぎ、広島県内へと入っていきました。次の目的地は宮島にある世界遺産『厳島神社:いつくしまじんじゃ』です。雨雲に追いかけられながら、何とか港へ辿り着き、いざフェリーへ!

ここ何年のインバウンドのお陰かもしれませんが、相当観光客が多いのでしょう。船は朝の6時から夜22時まで出ており、さらに1日1時間に4本も出す忙しさ。さらに10分で到着し、料金が、な、な、なんと片道180円なのです。しかもSuica、PASMO、ICOCA、などICカードも使えるという素晴らしさ!ヾ(≧∇≦ )ブハハハ!ヾ(≧∇≦)ブハハハ!( ≧∇≦)ブハハハ!

早速自転車を港に止め、フェリー観光となりました。フェリーに乗ると宮島が見えてきて海の中にある鳥居が見えてきました。この日は引き潮でしたので鳥居まで水が浸っておりませんでした。

島に到着すると野放しで飼われている、鹿たちが私達観光客を迎えてくれました。15分ほど歩いたでしょうか、やっと厳島神社へ到着し中を見て廻りました。

広島県には今も、沢山の文化遺産が残る街となっております。広島市には朝鮮鐘が4つあり、大切に保管されています。

ユネスコ世界遺産・厳島神社にも朝鮮鐘が保管されており、国宝となっております。そしてもう一つ『松喰鶴蒔絵小唐櫃:まつぐいづるまきえこからびつ』という6つの足を持つ箱が国宝になっています。『唐櫃:からびつ』とは高価な物をしまう箱で、皇室や貴族が使った箱です。さらに『唐櫃:からびつ』の唐とは、『韓:から』の事であり朝鮮半島との関わりがあるようです。兵庫県の有馬温泉の近くに『唐櫃台駅』があり、ここはかつて、朝鮮半島渡来人の秦氏が沢山住んでいた場所でもあります。

さて、1970年前半、ここに『在日朝鮮人総聯合会』の初代議長・韓徳銖先生が訪れています。先生は宮司さんと会話し、貴重な証言を頂いたそうです。韓徳銖先生は「以前、厳島神社の宮司に会ったところ、彼は『わたしの神社の祝詞は古い朝鮮語なのです』と言っていました。」金達寿著『日本の中の朝鮮文化』6巻213ページより。

『祝詞:のりと』とは、神を祭り神に祈るとき、神主や宮司が神前で申し述べる古体の文章の事です。

厳島神社の神は3人おり、3人皆がスサノオノミコトの娘(剣を降り産まれた)になります。以前、このFacebookシリーズの『結構知られていない日本と朝鮮の歴史089』でも書きましたが、島根県出雲大社の神はスサノオノミコトであり、日本最古の歴史書・古事記にも『スサノオノミコトは新羅(昔の朝鮮国)から来た神である』と書かれています。

古事記の文章や、韓徳銖先生の言葉を合わせ考える時、厳島神社は、朝鮮半島と深い関わりがあると考えられるのです。

厳島神社を堪能した私は、陸に帰り、広島県『呉市:くれし』へと向いました。この日の宿を探し『海田市:かいたいち』駅の近くのビジネスホテル『海田中央ホテル』を取りました。宿に荷物を置いて、近くの広島焼きのお店『お好みハウス遊』に行き、料理を堪能しました。料理もおいしく、お店のマスタ-はとても良い方で、気さくに話しかけてくれたお陰で、広島の良いおもいでとなりました。マスターと常連さんと話すうちに彼らともFacebook友達となりました。

(o^-')b To be continued…


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①山口県から広島県に入り、まずは即宮島行きのフェリーを探し、港に来ました。これから世界遺産めぐりです。
(☆Д☆)キラリーン♪ー 場所: 広島県 廿日市市
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⑦宮島にはいたるところに鹿が放し飼いです。でも観光客を相手しすぎてぐったりしてました。
( ̄∇ ̄;)ハッハッハー 場所: 広島県 廿日市市
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⑫厳島神社の中に入りました。引き潮だったので『水に浮かぶ神社の姿』は見ることができませんでした。残念。
(x_x;)シュンー 場所: 広島県 廿日市市
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⑬厳島神社から見る鳥居の姿です。空も晴れ、とてもいい気持ちで観光できました。ー 場所: 広島県 廿日市市



大村益次郎の故郷 鋳銭司。 錦帯橋。吉川家。 写真は後日

2019.06.05.Wed.08:34
2018年のチャリ旅、九州宮崎県→大阪
6日目その1『山口県の中の朝鮮』

早朝、新山口駅を出た私は、東へ東へと進んでいきました。
すると途中、銭のふるさと『鋳銭司:すぜんじ』という町に入りました。ここはノーマークだったので陸橋にかかる垂れ幕を見て、即観光する事を決断しました。

この街は明治維新で活躍した大村益次郎の生まれ故郷でした。彼は数奇な運命で、この田舎町の医者になろうと大阪に出て『適塾:てきじゅく』で勉強に励みます。しかしあまりの勤勉さに読む本が無くなるほどでいた。彼はオランダ語だけで無く、イギリスの英語の本まで読むようになり、医療の本も読むのが無くなると、今度は砲術や戦術、 ‎兵学者の本まで読みあさるようになるのです。

結局その才能を見出し買ったのが、自国の長州藩(現在の山口県)では無く、現在の愛媛県、伊予藩の城主『伊達宗城:だてむねなり』でした。伊達の御殿様の招待で伊予に来た益次郎は、蒸気船を作るよう命じられ、大工職人と2人で日本発の蒸気船を作ってしまいます。

こんな凄いことを聞いた長州藩は即彼を自国に戻すと共にとても良い待遇で迎えるのでした。時期は幕末、その後『戊辰戦争』も起こり、色んな戦術・砲術を習得し、さらに‎兵学者として地位を確立している大村益次郎も上野に借り出されます。当時、寛永寺(上野公園や上野動物園も含む敷地)に閉じこもっていた侍たちを排除する任務を益次郎は受けます。当日の朝、何本かの大砲を上野寛永寺に向けた大村益次郎は「今日の昼過ぎにはこの戦争も終わるでしょう」と予言し、江戸城で横になっていました。

砲撃が始まり何度も砲撃が行われました。すると後に、益次郎の予告した時間に戦争は終わるのです。大村益次郎は戦争が終わった後、敵味方関係なく遺体を自ら回収し、現在の九段下に魂を祭り神社を建てたそうです。こういった経験から、明治政府は後に政府の軍隊を彼に預け育成をしていきます。これが大村益次郎を今も『日本陸軍の父』とし崇め、靖国神社に銅像が建つ理由です。

そんな彼の故郷があると走らず偶然見つけたこの町に寄る事にしました。道を左に逸れ、少しの坂を上っていくと、大村益次郎の墓や、神社がありました。早朝でしたので人影は見えず、一人歴史散策を楽しみました。

次に向ったのは岩国でした。ここにはあの葛飾北斎も描き、さらに日本さくら名所100選に選ばれている『錦帯橋:きんたいきょう』があります。そして、山口の中の朝鮮がある場所でもあります。

錦帯橋へ着くとやはり観光客が多く居るのかなと思っていましたが、シーズンオフでしたのでお客さんの数もまばらでした。昔『サザエさん』のオープニングで出ていた事があり「いつか行ってみたいな」と思っていました。錦帯橋は有料です。

自転車では通れないので、グルット周り錦帯橋の裏へ行きました。ここに来た理由は山口県岩国にあった『岩国藩』を城主だった『吉川家:きっかわけ』の墓があるからです。

吉川家のの主流派『長州藩の毛利家』です。毛利家の初代は、中国地方の覇者『毛利元就:もうりもとなり』です。毛利元就の先祖は朝鮮半島渡来人であることを、私の前の文章でも取り上げましたが、そんな毛利元就の次男が吉川家に養子として入り、毛利元治→吉川元治となり、この藩の領主として栄えました。領主の代々の陵墓がこの錦帯橋の裏にあるのです。

とにかく広い敷地に、何代もかけ手作られたお墓が何基も立っていました。また菩提寺の管理が行き届いているお陰もあって、とても綺麗に整備されていました。この吉川家の子孫の一人が、芸能界でも有名な『吉川晃司』さんです。

話を戻し、吉川家の墓の裏にあるお寺が、菩提寺で『洞泉寺(とうせんじ)』と言います。この『洞泉寺(とうせんじ)』には、伝来は不明ですが、ここには66.5cmの『如来形坐像』があります。14世紀初期・高麗時代後期頃の青銅で作られた物で、朝鮮半島から渡ってきた仏像です。手と顔は京都の弥勒菩薩を思い起こさる綺麗な、いでたちです。そしてお寺の境内には、朝鮮半島が植民地時代に持ち出された『文官の石像』2体と、『六角亭』1塔があるのです。吉川家の菩提寺に何故このような朝鮮半島とゆかりあるものが沢山残っているのでしょう・・・

朝鮮半島は、1910年に日本の植民地となり、その後『朝鮮総督府』というものが設けられ、朝鮮国を統治されました。2代目総督『長谷川好道:はせがわ よしみち』は、ここ山口県岩国の出身です。

そして先ほど書いた『六角亭』は、彼が総督時代に、ソウル北方の『碧諦館:ピョクジェグアン』を訪れ、そこにあった六角亭を見て気に入り、日本の故郷、岩国にそのまま送った物なのです。そしてここにある石像もまた、当時一緒に運ばれた物なのです。説明文に日本語とハングルの両方が書かれているのは、少し配慮が足りないような気がするのは、私だけでしょうか…

しかしお寺の中に入り、住職さんの奥様と話すと、とても優しく丁寧に案内され、色々話をする事ができました。また写真も快くOKしてくださり、撮る事ができました。高麗時代後期頃の青銅『如来形坐像』は管理がとても良く、まるで作りたてのように綺麗でした。

(o^-')b To be continued…

①ノーマークだった鋳銭司に到着。幕末の有名人、大村益次郎の故郷でした。ー 場所: 山口市
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⑤大村益次郎と、妻の墓ー 場所: 山口市
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⑱葛飾北斎が描いた錦帯橋の絵。
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⑳反対側からも『錦帯橋:きんたいきょう』を撮影。
アーチがとても綺麗です。ー 場所: 山口県 岩国市
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