高崎市佐野界隈④終

2017.09.20.Wed.09:53
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2017年9月10日(日)
【いにしえを往く 高崎市佐野界隈④終 「佐野の船橋」跡】
「― 万葉のロマンが悲恋を伝える地・謡曲『船橋』の舞台で起こったのは 事故か? 計画殺人か? いま明かされる歌碑に刻まれた哀しい真相とは ―」
比定地 歌碑・高崎市上佐野町203番地。※取材は9/3です。
▼『上毛野 佐野の舟橋 取り放し 親は放くれど 吾は放かるがへ』
(かみつけぬ さののふなはし とりはなし おやはさくれど わはさかるがへ)
万葉集 巻十四
意味・「佐野の舟橋を親が取りはなって あなたと私の仲を引き裂こうとしても、私は決して裂かれはしません。」
▼常世神社で謡曲『鉢の木』についてざっくり書きました。
常世神社からさらに北へ歩くと坂を下り烏川岸の窪地に降りるのだけど、左手に上信電鉄『佐野のわたし』駅が佇んでいる。
この付近の市街化に対応して、2014年に開業した新しい駅だ。一日70人程度の乗降客だそうだが、地域の大事な交通手段になっている。高崎駅までは二駅だ。
駅の施設や表示板などは一般公募されたデザインでなかなか好感が持てる。
言うまでもないけど、駅名はむかしこの付近にあった「佐野の渡し」にちなんでいる。
▼常世神社から駅に向かって坂を下りきった四つ角を烏川方向へ左折すると、自動車は通行できない珍しい木造橋が架かっていて風情がある。
「佐野橋」というが、この付近には古来から舟橋が架けてあり、対岸との往来が盛んだった。
▼昔話になるけど…
上佐野の西光寺の近くに、長者屋敷といわれる所があります。
昔、ここには、飯野主馬というお金持ちの「朝日の長者」がおり、長者には一人の娘がおりました。
烏川をへだてた向こう岸には、片岡民部という「夕日の長者」がおりました。こちらには、一人息子がおり、名を小次郎といいます。
やがて二人は年頃になり、娘と小次郎ははじめてこの舟橋の上で出会いました。二人はたちまち惹かれあい、恋に落ちたのです。
その夜から小次郎は舟橋を渡って娘のもとへ通いだしました。屋敷をこっそりと抜け出した小次郎が舟橋をこばしりにわたっていくと、むこうの橋のたもとに娘が待っています。ふたりは、夜のふけるのもわすれて語りあうのでした。
ふたりは毎夜、逢瀬をたのしんでいましたが、ついに娘の母親の知れるところとなりました。
富を競う両家の仲の悪さはこのあたりでも有名です。娘と小次郎の恋は許されざる恋となってしまったのです。
▼娘の家では、何とかしてふたりの仲をさこうとしました。
ある夜、ひそかに家の下男に命じて、男の通ってくる舟橋の橋板のいく枚かをはずさせました。
そんなこととはつゆとも知らない小次郎は、今夜も恋人に逢える胸の高まりを抱いて、心はもう娘のもとにとんで、舟橋を走ってわたりました。
足元も暗い時代です。小次郎は橋の上から烏川の流れの中にまっさかさまに落ちていきました。
娘は橋のたもとで小次郎のくるのを待っていましたら、向こうから男が走ってきます。
「ああ、今夜も来てくれた…」 娘がうれしくて胸をときめかせたのもつかの間、男の姿がかきけすように見えなくなってしまいました。
はずされた橋板を見て、娘はすべてをさとりました。そして、身をひるがえすと、小次郎のあとを追って川へ飛び込み、二度と浮かびあがることはなかったということです。
▼後世、熊野山伏が松島平泉へ行く途中にこの佐野の渡しを通ると、この地に橋を架ける費用の寄進を募っている男女に出会います。
山伏が橋の由来を尋ねると、女はさきの物語を打ち明け、実はそれが自分たちのことで、供養をしてほしいと言い残して消えてしまったのです。
▼そこで山伏が加持をし二人の成仏を祈ると、二人の霊が現れ山伏に苦衷を訴えて、やがて法力で成仏する…というあらすじです。
このお話は謡曲『船橋』として書かれ、奇しくも北条時頼伝承の『鉢の木』と同じ舞台に取材したとされています。
▼「舟橋・船橋」というのは、恒久的な橋ではなく、底の浅い小舟をつないで、その上に床板を敷いた仮設の橋をいう。
江戸期の画家、葛飾北斎がこの地の船橋を描いているが、昭和初期までは各地で見ることができたようだ。
▼謡曲は上州女の一途な愛の情熱をたとえた伝承で、酒宴などで歌い継がれたことであろう。
「佐野の船橋 歌碑」石碑は上佐野町の河岸段丘上に高崎市指定史跡として建てられている。
裏の碑文を見ると、文政10年(1827年)に延養寺住職によって記されたとある。江戸時代、徳川11代家斉の治世だ。
信仰心の篤い時代だ。近在の民人が平穏を願って伝承を供養したものであろう。
▼ここからは西の佐野窪一帯が見下ろせ、近代建造物が視界を遮りさえしなければ、佐野の渡しがあったあたりも一望できたであろう。
上州には情熱的な女性が多い。ひきかえて、情けないドジな男も多い。
そんな男を一途に愛する強い女の情念を垣間見る思いを抱いて、グンマの光彦はこの旅のエピローグとした。
※「グンマの光彦 いにしえを往く・高崎市佐野界隈」のシリーズはこれで終わりです。読んでいただいた皆様に御礼申し上げます。(終)


葛飾北斎画「佐野の船橋」。
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恋に落ちた男は、向こう岸をさして女のもとに会いに走った。烏川は現代でもこの付近の水深は深い。(佐野橋の上から東岸を見上げる。)
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偶然下り電車が到着した。「佐野のわたし」駅。
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歌碑は佐野窪を見下ろせる河岸段丘上の市道わきに建っている。
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歌碑のウラ側。
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南を向いて撮った構図。
自販機の先が「歌碑」のある場所。見落としやすい立地だ。右前方に降りていくと、高層マンションわきに「佐野橋」が架かる。
「佐野のわたし」駅は撮影地からすぐ右方向へ降りたところ。
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高崎市佐野界隈③ 

2017.09.20.Wed.09:26
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2017年9月9日(土)
【いにしえを往く 高崎市佐野界隈③ 常世神社】
「いざ 鎌倉!!」発祥の地。伝説・謡曲『鉢の木』の舞台 】
比定地 高崎市上佐野町496番地先。※取材は9/3です。
▼自分が一番大事にしている持ち物を犠牲にして、他人に情けをかけられるだろうか?
後世の創作というのは常識になっているが、謡曲「鉢の木」のお話。
▼今回のゆかりの地は、「常世神社」である。
シリーズ②で立ち寄った佐野古墳群の「漆山古墳」から北へ徒歩2分とかからない距離にある。
上信電鉄「佐野のわたし」駅からも近い。
時代は再び藤原定家の活躍した鎌倉時代に戻ることになる。
鎌倉第5代執権・北条時頼(在任期間 1246~1256年)のエピソードだ。
▼鎌倉時代には橋がない「烏(からす)川」を越えるための「佐野の渡し」がこの付近にあったといわれる。
当時の日本の事実上の最高権力者、鎌倉幕府先の執権・北条時頼(最明寺殿)は、執権職引退後に、貧乏僧に身をやつしてお忍びで諸国の動静を自ら見て歩いた。
物語によっては、わが子への帝王学教育のために、のちに元寇を撃退する息子・第8代執権北条時宗と旅をしたとも脚色される。
▼ある日、上野国佐野まで旅の僧がやってくると、烏川の渡しを前に大雪で難渋し、一軒のあばら家に一夜の宿を乞うことにした。
その家の主は、御家人佐野源左衛門尉常世(さのげんざえもんのじょうつねよ)と名乗る。
常世はありあわせの粟飯を出したが、薪がないからといって大事にしていた鉢植えの木を切って焚き、僧に暖をとらせ精一杯のもてなしをする。
常世は僧を相手に身の上を話してこういった。
「一族の横領によりこのように落ちぶれてはいるが、一旦ことあらば痩せ馬に鞭を打ち いち早く鎌倉に駆け付け命懸けで戦う所存である」と。
僧は一晩の宿ともてなしに感謝を述べ佐野を去った。
▼しばらくして、得宗家・北条時頼は鎌倉から御家人に召集令を発した。
佐野源左衛門尉常世はあのときの宣言通り鎌倉に馳せ着けた。
時頼は、常世を召し出すと自らの身分を明かし、あのときの宣言どおりの忠勤を賞賛した。
そして、横領された知行地を返してやり、当時もてなしのために焼き捨ててくれた鉢の木にちなんで、それぞれの木の名を冠した領地を改めて常世に与えた。
すなわち、加賀国梅田庄、越中国桜井庄、上野国松井田(松枝)庄がそれである。
後世で言う「情けは人のためならず」とは少しニュアンスが違う。
能楽を確立した観阿弥・世阿弥の作ともいわれるが不詳だ。
▼武士道を讃えるものとして江戸時代に特に好まれ、「いざ鎌倉」の語源となったと伝わる。
佐野常世の屋敷跡とされる場所の片隅に、現在地元の方の手で「常世神社」がまつられ、近くの佐野渡し付近には味わいのある木造橋が保存されている。
ここも「佐野古墳群」の一つに挙げられる小古墳を利用した神社だ。
▼常世神社の下には木造橋の「佐野橋」が佇んでいる。
かつては小舟をつないだ舟橋の態を取っていたが、その話は「シリーズ④」で別途書きたい。
「佐野の舟橋」と呼ばれた渡しは、対岸を通る鎌倉街道から、後に例幣使街道となるこちら側岸の古道とをつないでいたと考えられるている。
なお「佐野」の比定地は下野国(栃木県佐野市)との説もあり、常世の墓と言われるものは佐野の願成寺(栃木県佐野市鉢木町15−1)にある。
▼北条時頼が実権を握っていた治世は、鎌倉幕府が「得宗北条家」の下で最も安定した時期で、時頼自身も撫民(一般民衆を大事にする)政策を心がけたと言われ、このような廻国伝説調の伝承は各地で形を変えて伝えられている。
「鉢の木」は後世室町時代に書かれたと言われるが、モトネタはあながち全くのフィクションということでもないようだ。
この時頼(最明寺殿)の薫陶を受けた息子時宗(第8代執権)が、あの国難・元寇に立ち向かうことになる。(シリーズ③ 以上。)

道路に面しているのは参道入り口の鳥居だけなので、分かりにくい。左側は新幹線の高架が圧するようにそびえている。
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本殿の建つ場所は古墳の墳丘らしい。
右手の掲示板の扉を開けると、「鉢の木」の場面を再現した絵が観られる。ユニークな仕掛けだ。
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佐野の渡し付近。常世神社を背にして、烏(からす)川にかかる木造橋の「佐野橋」から上流を見ると、上信電鉄の鉄橋が夕日に映えていた。
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イメージまでに…。
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〇数字は歴代執権職の就任順。義時・泰時から時頼・時宗そして高時にいたる家系を北条氏のなかでもとくに「得宗」とよばれ、絶大な権力と富を掌握していった家系だ。
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現在の地図に置き換えた鎌倉時代の首都への国道「鎌倉街道」ルート。
古代東山道は板鼻で別れて栃木県の佐野方面に向かっていた。
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高崎市佐野地区①

2017.09.07.Thu.08:04
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いにしえ を往く・高崎市佐野地区
2017年9月4日(月)
①『定家神社』】所在地:群馬県高崎市下佐野町873番地。

▼「来ぬ人を まつ尾の浦の夕なぎに 焼くや藻塩の 身も焦がれつつ」
いつまでも現れない貴方を待っていると まるで松帆の浦の夕凪の時に焼く藻塩のように 私の身はずっと恋焦がれるのです(「小倉百人一首」の定家の歌)

▼藤原定家(権中納言定家。1162-1241)歌人・官人。歌人としては「ていか」と読むけど、「さだいえ」が正しい。栄華を誇った藤原道長から5代後の子孫にあたる。
『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』の二つの歌集の撰者として著名な人物だ。
その藤原定家を祭神としているのがこの『定家神社』。

▼境内には「万葉集 東歌」の歌碑が建っていた。

「佐野山に 打つや斧音(おのと)の 遠かども 
寝もとか子ろが 面(おも)に見えつる」(万葉集・巻十四 3473)

「佐野山で打つ斧の音のように遠いけれども 寝ようというのであろうか あの子が面影に見えたのは」

歌碑は神社の対岸、高崎市山名町の八幡山にも建っている。そこが佐野山だろうか。上毛三碑の「上の山碑」に近い。
神社の立地はそんなロケーションだ。

▼定家の血を引く民部卿為茂による「定家大明神之縁起」(元禄7年、1694)によると、定家が東国行脚の折、佐野の松原に草庵を結び、しばらく住んだ後、持仏の観音菩薩を村人に贈り、京へ帰った。村人達は定家を慕い、草庵を堂として、観音像を安置して信仰したとされている。

▼半紙に「こぬひとを まつほのうらのゆうなぎに やくやもしほの みもこがれつつ」の歌を書いて、定家神社の木戸に貼っておくと、3日以内に失せ物が見つかるという言い伝えがあるそうだ。
恋い慕うお方の行方も知れるといいですね。


今回(9/3)歩いた高崎市上下佐野町かいわい。
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上越・北陸新幹線の高架下です。
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定家神社の鳥居。前面道路は6m以上あり、交通量も少ないが、ナビがないと分かりにくいかな。
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拝殿。
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小さな円墳が境内にありました。この佐野一帯は、大小70基以上の古墳があったようだ。
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美しい本殿。
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境内に万葉集東歌の「佐野山に…」の歌碑があります。
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由来は分りませんが、定家神社の中にありました。
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高崎市佐野地区②

2017.09.06.Wed.14:35
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2017年9月6日(水)
いにしえを往く・高崎市佐野界隈②
「上野三碑(こうづけさんぴ)と佐野古墳群」※9/3取材。
漆山古墳の所在地 群馬県高崎市下佐野町863-1付近。

▼シリーズ①の定家神社を後にして、新幹線の高架をくぐり北へ100mほど歩く。
地図にも載っていないし、住宅街区の只中なのでうっかり見落としてしまいそうな場所にあるのが「漆山(うるしやま)古墳」だ。

今回のターゲット、佐野古墳群は、藤原定家が活躍した鎌倉時代初期から700年ほど古代にさかのぼる大和~飛鳥時代の話になる。

▼漆山古墳は、この付近に集中していた「佐野古墳群」と呼ばれる70~80基の古墳の中でも盟主的な存在とされる前方後円墳。
現在文化財調査中らしく、ブルーシートに覆われていたが、下手に復元されていない生々しい姿に接することができる。

▼西日本で古墳の築造が減少していった6世紀ころ、東国での大型古墳の築造はピークを迎える。
『上毛古墳総覧』(昭和13年刊行)によると、4~8世紀に群馬県内で築造された古墳の数は8423基。その後の調査で12,000基まで確認されている。

大型古墳の数は現群馬県で97基確認される。千葉39基、栃木16基、東京・埼玉26基と比べても、関東ではダントツの数だ。

▼群馬に集中するのはさまざまな理由が考えられるが、当時湿地帯や荒れ野の多かった関東平野に比べて、赤城・榛名の火山から平野に至るなだらかな関東内陸部は、農耕に適した肥沃な大地が開けていたとされる。

だから畿内からの人も流入し、ヤマト政権とも早い段階で交流ができ、その傘下に入ったものと考えられるそうだ。
関八州の沃野が巨大な生産力を持つようになったのは、江戸幕府による利根川流路変更の工事、開墾や干拓事業が進んでからのことであろう。

▼物証として、これらの古墳からは朝鮮半島や中国大陸との関りを示す獣帯鏡や銅製水瓶などの当時の最先端を行く豪華な副葬品が出土している。

漆山古墳のある佐野一帯には、「佐野の屯倉(みやけ)」と呼ばれる大和政権の直轄地が開かれていたとされ、漆山古墳の被葬者も副葬品などから、佐野屯倉の管理者の地位にあった者ではないかとみられる。

▼古代の日本は文字を持たなかった。中国から輸入した漢字とそれを読み下しする際に発明されたカナ文字の組み合わせで、平安時代以後は日本独自の漢字かな混じりの記録法ができていった。

▼法律によって統治する中央集権政治をめざした大和政権は、行政の事務処理を正確に伝え、効果的な統治をおこなうために大宝律令(701年)を定めた。

そのためにも漢字が必要とされたのだが、一般民衆はもちろん文字など読めない。役人が主に口頭で文字を読み聞かせ、政府の法律や命令を伝えた。

▼「上野三碑」は、多胡碑、山上碑(やまのうえひ)、金井沢碑で、ユネスコの「世界記憶遺産」登録を目指す国内の候補になった。

多胡碑ができたのは8世紀初頭とされ、碑文によると、
「711年(和銅4年)3月9日に上野国片岡郡・緑野郡・甘楽郡(碑の原文は「甘良郡」)の中から300戸を割いて 新たに多胡郡が建てられた」ということと、これを決定した当時の中央政府官吏3名の名が記されている。
いまでいう行政の合併を布告する命令書を刻んだものだ、とされる。

▼山上碑と金井沢碑もこの佐野から至近地に建っている。
一帯に勢力を誇ったそれぞれの建立主が、先祖の追善供養を行うにあたって、当時の先進思想だった仏教によって行われたことを示して一族の優越性を誇ったものと解釈される。

碑文によると「佐野三家(さののみやけ)」の記述があることから、佐野屯倉を管理する者の子孫が建立したのではないかと推定される。

▼漆山古墳からほど近い「下佐野町第一公民館」脇にこじんまりとした「放光神社」がある。
前身は伽藍を持つ「放光寺」と伝わるが、脇に「史蹟 放光寺 放光明神跡」と刻まれた石碑がある。

背面の刻み文には
「抑そもそも吾力佐野ノ郷ヘ奈良時代既ニ闢ひらク 大化改新前屯倉ヲ設置セラル…」等と刻まれていて、佐野屯倉の存在を追記している。

▼佐野古墳群は昭和の急激な宅地開発と新幹線などの都市インフラ整備が急がれたことで、いまでは大半の古墳が失われてしまった。

漆山古墳も大きな前方後円墳ながら、方形の「前部」を大半削られてしまい、その跡地に道路やアパートが立ち並ぶ市街化の様変わりを見せている。
(シリーズの②は以上。次回③は、鎌倉時代中期の謡曲「鉢の木」のお話。)




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高崎市佐野界隈を歩く。

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定家神社から歩いてくると、空き地の向こうに「漆山古墳」の後円部墳丘が見える。

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説明会があったのだろう。日曜日だったためか、見学者もちらほら。

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佐野古墳群はこの漆山古墳を中心に分布する。
より大きな浅間山古墳や大鶴巻古墳はやや時代が古い。

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漆山古墳の横穴の立派な石室部。烏川対岸の産出石材だそうだが巨石だ。

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後円部墳丘の上。

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前方後円墳だったが、「前方」部分は何時の頃のことか、大半を削り取られてしまっている。

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墳丘上から西方向の新幹線高架を見る。
漆山古墳まで乗用車が入れるような街路が付いている。

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後円部墳丘を西側から見た。

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下佐野町第一公民館脇に「放光神社」がある

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放光神社の石碑ウラに「佐野屯倉」のことが刻まれている。近代に建てたものであろう。

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ユネスコ世界記憶遺産登録の国内候補、「上野三碑」。群馬県のサイトから。

奈多八幡宮

2017.08.25.Fri.09:11
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嘘みたいな本当の歴史話㉒ + 言葉の語源 その114

皆さん、大分空港滑走路を望む大分県杵築市(おおいたけんきつきし)の奈多海水浴場のほぼ中央に、「奈多八幡宮(なだはちまんぐう)」が鎮座しております。
この神社、「奈多宮(なたぐう)」とか「八幡奈多宮(はちまんなたぐう)」とも呼ばれており、大分県宇佐市にある新羅渡来人が創建した全国総八幡宮の本社「宇佐神宮」の別宮として創建されましたが、伝承では奈多海水浴場沖合300mの岩礁が元宮とあり、岩礁に比売神が降臨して現在の場所に遷ったとされております。

宇佐八幡宮では「放生会(ほうじょうえ)」、「行幸会(ぎょうこうえ)」と呼ばれる二つの神事が執り行われます。後者の行幸会は宇佐八幡宮のみで6年に1度執り行われる古代からの神事です。昔は福岡県田川郡の新羅神を祀った「香春神社(かわらじんじゃ)」で採銅された銅で鏡を作り、それを神輿に納め、大分県中津市の新羅渡来人が創建した「薦神社(こもじんじゃ)」に立ち寄り、神社境内にある池の真菰で「薦枕」を作り一緒に神輿に納め、関連神社をまわり宇佐神宮上宮に新しい御神像と共におさめたそうです。ちなみに現在は香春神社とのつながりは絶たれております。

さて、新しく御神体、御神像、薦枕が宇佐神社上宮に納められると、元々あったご古い御神体、御神像、薦枕は宇佐神社下宮に移され、宇佐神社下宮にあった古い御神体、御神像、薦枕は、奈多八幡宮に納められるそうです。さらに奈多八幡宮にあった古いご神体、御神像、薦枕は、目の前の海に流されるそうです。これだけ見ても宇佐八幡宮と奈多八幡宮の密接な関係がわかりますね。

つまり、奈多八幡宮も新羅渡来人が創建した神社なんです。それを物語る様に、この神社の目の前奈多海水浴場は現在、人工の白砂がまかれておりますが、元々上質の砂鉄が取れた浜で、この一帯には古代製鉄、製銅所跡が沢山出土しております。そう、ここの鉄や銅の技術も渡来人がもたらした技術なんです。

さて、この奈多八幡宮境内奥には、一体の像が「みかんの祖」として祀られております。その人物は「田道間守(たじまもり)」で、現在はお菓子の神様として福岡の太宰府天満宮はじめいろんな神社に祀られております。この「田道間守」は日本書紀や古事記といった日本の古い古文書に登場する人物で、果物、特に柑橘類の蜜柑を日本全国に植えて回った人物として記録に残っており、それがいつしか甘味の神様つまりお菓子の神様として祀られるようになりました。皆さんご存知の柑橘類の「橘(たちばな)」は「田道間花(たじまばな)」が転訛したとされており、関西の地名「丹波」は元々「但馬」でこの「田道間」が語源とされております。

さて、この「田道間守」は実は渡来人の子孫、もしくは渡来人とされております。それはこの「田道間守」が新羅渡来人の「天日矛(あめのひぼこ)」の末裔、もしくは孫と記録が残っているからです。「天日矛」は太陽を神として信仰する新羅の製鉄シャーマン集団とも言われており、西日本と九州に沢山の伝承を残しております。

ちなみに「蜜柑」の語源は「三韓」で、韓国南部にあった古代国「馬韓國」「辰韓國」「弁韓國」の「三つの韓国」から来ていると昔歴史家に聞いた事がありますが、その資料の記述を見つける事が出来なかったので、この「蜜柑の語源」は自分の私的見解としての発言と理解してください。

いかがでしたか今日の嘘みたいな本当の歴史話と語源話のコラボ。
信じるも信じないもあなた次第。
では、また次回・・・

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奈多八幡宮拝殿
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奈多海水浴場
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奈多八幡宮の元宮
奈多海水浴場沖合300mの岩礁に、比売神が降臨したとの伝承があります。
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奈多八幡宮鳥居
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奈多八幡宮由来書
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奈多八幡宮鳥居の扁額
八幡奈多宮とあります。
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奈多八幡宮由来書
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田道間守像の全景
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田道間守の像
ここでは「みかんの祖」として祀られていますが、お菓子の神様として全国で祀られています。