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南国宮崎の古墳景観

2019.03.18.Mon.08:26
宮崎県初の日本遺産である南国宮崎の古墳景観は、西都原古墳群、新田原古墳群、生目古墳群の広大な古墳群と南九州特有の横穴墓で構成されています。広い台地に当時の姿かたちを克明に残し、時を越えて古墳時代の人びとの世界を伝えてくれます

南国宮崎の古墳
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白村江の戦い

2019.03.12.Tue.07:29
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米ブラウン大学ワトソン国際公共問題研究所が昨年11月発表した調査結果によると、2001年9月11日の米同時多発攻撃を受けて始まった米国の「テロとの戦い」によりイラク、アフガニスタン、パキスタンで発生した暴力による民間人を含む死者が計約50万人に達した。

 昨年12月20日、米国の複数メディアがトランプ米政権はアフガニスタンから米兵数千人の引き上げを計画中と報じるなど、ようやく戦線縮小の兆しも見える。しかしこれまで払った犠牲はあまりに大きいし、「テロとの戦い」を掲げる海外軍事介入がいつ終わるのかもなお不透明だ。

 倭国と呼ばれた古代の日本も、海外で軍事介入に乗り出して大敗し、膨大な犠牲を払った苦い経験がある。白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦いだ。

 朝鮮半島では655年、高句麗(こうくり)と百済(ひゃくさい、くだら)が連合して新羅(しんら、しらぎ)に侵攻し、新羅は中国の唐に救援を求める。唐の高宗は660年、まず百済に出兵してその都扶余を落とし、義慈王は降伏して百済は滅亡したが、各地に残る百済の遺臣たちは百済復興に立ち上がり、倭国に滞在していた百済の王子豊璋(ほうしょう)の送還と援軍の派遣を要請してきた。

 女帝の斉明天皇と息子の中大兄皇子(のちの天智天皇)は大軍派遣を決定。661年、中大兄皇子は斉明天皇とともに筑紫(現福岡県)に出征し、同地で斉明天皇が死去した後は天皇の座に就かないまま戦争を指導する。662年に軍を渡海させるが、翌663年、朝鮮半島西岸の白村江で唐・新羅の連合軍に大敗した。これが白村江の戦いである。

 白村江で唐・新羅連合軍は倭国水軍と4度戦い、倭国の船400隻を焼き払った。その煙と炎は天を覆い、海が赤く染まったという。唐の軍艦が陣を敷いていたところに、次から次へと倭国の兵が突撃し、両側から挟み撃ちにあって、多くの兵が溺死した。数万の軍はほぼ全滅だったとみられる。

 わずかながら帰国した兵や捕虜となった兵の記録が残っている。白村江とは別の新羅戦線に進軍した兵士たちとみられる。命こそ助かったものの、大変な辛苦をなめたようだ。

元記事はこちらへ



朝鮮式山城iについて朝鮮式②

2019.03.11.Mon.08:43
嘘みたいな本当の歴史話㊸

さて皆さん、今年の元日のブラタモリをご覧になられたでしょうか?そこでタモリさんが大野城や水城を日本初の朝鮮式山城として紹介していた場面があり、とある大発見の事を紹介しておりました。今日は前回に引き続き、朝鮮式山城のお話をしたいと思います。

前回水城の事をお話ししましたね。水城土塁跡は大宰府跡地のすぐ北東側にありますが、初めは玄界灘からの新羅軍の侵攻を防御する為に築かれた短い土塁と思われておりました。しかし研究が進むにつれて、大野城、基肄城を含む大宰府市と筑紫野市を囲う土塁の一部ではないかと言う説が現在では有力です。それを物語る様に北部の水城だけではなく南部の基肄城のすぐ下に「とうれぎ土塁跡」や「関屋土塁跡」の跡が見つかっております。さらに2016年に筑紫野市若江地区の前畑遺跡宅地造成に伴う区画整理の最中、水城と類似する土塁跡が見つかったからです。これは水城の土塁跡が広大な城域を囲った土塁の一部という説を裏付ける大発見だったんです。さらに推定していた土塁位置よりもさらに南方に土塁があったと言う根拠にもなりました。

これら広大な城域を土塁で囲い防御する城の事を「羅城(らじょう)」とも言います。「羅」は「国」を意味します。この大宰府市と筑紫野市を防御した羅城はかつて百済の首都、「泗沘(サビ)」を防御した「扶余羅城(プヨナソン)」に非常に類似していたそうです。つまり前回もお話しいたしましたか、百済の城域思想を持つ羅城だという事がわかりますね。

実は基肄城の位置は吉野ヶ里遺跡からそう遠くなく、有明海の海岸線が古代は吉野ヶ里遺跡付近にあったことから、有明海からの侵攻の防御も必要だったんです。吉野ヶ里遺跡から長崎にかけての山沿いは古代の海岸線でいくつも渡来人の痕跡が残っている事から、有明海も朝鮮半島からの往来が激しかった事が分かっております。つまり玄界灘の博多湾と佐賀県の有明海両方からの防御が必要だったんです。基肄城も有明海からの侵攻の防御の為に築城されたのではないのかと言われております。だから広大な城域の羅城築城が必要だったと言う人もいます。

さて2016年に発見されて今年元日のブラタモリで紹介された筑紫野市若江地区の前畑遺跡土塁跡は、先日たずねると既に崩されて無くなっておりました。でもその先の一部は有志達の運動により保存が決まりました。現在は宅地の開発中で立ち入りができませんが、数年後には見学も可能でしょう。

またこの他にも佐賀県武雄市、佐賀市、福岡県糸島市、久留米市、八女市、朝倉市を始め九州各地、関西や西日本の沿岸地域には朝鮮式山城の土塁の礎石や水門がいくつも残っております。

いかがでしたか、今日の朝鮮式山城のお話し。
信じるも信じないもあなた次第です。
ではまた次回・・・




右上は大野城
左下は水城土塁跡
右下は大宰府庁跡地
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左上は基肄城跡
右上は新しく土塁が発見された前畑遺跡の宅地造成場所
中央下の星マーク二つがとうれぎ土塁跡と関屋土塁跡
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大宰府羅城の推定図
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とうれぎ土塁跡
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とうれぎ土塁案内板
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関谷土塁跡。
現在は国道3号線の下にあります。
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関谷土塁の案内板
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基肄城から見た前畑遺跡宅地造成場所
写真中央の掘削場所
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ブラタモリで紹介された前畑遺跡宅地造成場所。
奥の斜面の上に土塁跡がありましたが、今は掘削されてありません。
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☆彡Aさんのコメント
なんとも壮大な規模の城域なんでしょうか。是非とも後世のためにも保全してもらいたいものです。
しかし、関西にも有るとは驚きました‼️

金浩さんのコメント
高台から望むその城域はものすごく広大です。
関西を始め西日本各地に沢山あり、特に九州に集中しております。
こういうのをみて回っても面白いですよ。

朝鮮式山城iについて①

2019.03.11.Mon.08:05
金浩
2月27日 17:14
嘘みたいな本当の歴史話㊷

皆さん、2016年に福岡県筑紫野市でかつて朝鮮半島からの渡来人が築いた「朝鮮式山城(ちょうせんしきさんじょう・ちょうせんしきやまじろ)」の大発見があった事はご存知でしょうか?今日はこの「朝鮮式山城」とそれにまつわるお話をしたいと思います。

「朝鮮式山城」は「百済式山城(くだらしきさんじょう)」とも呼ばれ、読んで字のごとく朝鮮半島式の山城や城郭の事を言います。日本のお城は天守閣を守るためにありとあらゆる防御策を敷いた様式でありますが、朝鮮半島のお城は街そのものを城壁や土塁等で囲う様式です。この様式は朝鮮半島の古代三国時代(高句麗、百済、新羅)に急激な発展を遂げたそうです。

では何故、日本に朝鮮式山城があるのか?それは朝鮮半島の6世紀三国時代にさかのぼります。朝鮮半島にあった三国の中の一つ新羅は常に他の二国、高句麗と百済に挟まれ攻撃の危機にさらされておりました。そこで新羅は唐の国(中国)に援軍を求めてついに百済を攻め滅ぼしにかかりました。百済はそこで大打撃をうけ滅亡の危機にさらされます。そこで百済は交流が深かった倭国(日本)に援軍を求め、倭国はそれに応じて百済に軍を派兵しました。西暦663年、百済軍と倭国の連合軍はかつて百済の重要都市であった錦江付近で新羅と唐の連合軍と激しい戦闘となり大打撃を受けとうとう百済は滅亡してしまいます。この戦いを「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい・はくそんこうのたたかい)」と言います。

白村江の戦いで敗れた百済・倭国連合軍はその後日本に逃げ落ち、多くの百済渡来人が日本に渡ってきました。いつ反撃に出るかわからない新羅、唐連合軍に備えて、倭国は九州を中心に防御策に出ます。その中心となったのが九州の行政機関である大宰府(だざいふ・おほみこともちのつかさ)でありました。

白村江の戦いの翌年、西暦664年に現在の太宰府市と筑紫野市の平野部と山間部を囲むように土塁が築かれました。これを「水城(みずき)」といいます。またその翌年、西暦665年には平野部を挟む北側福岡県の四天王寺山に「大野城(おおのじょう)」を、また反対側の南側佐賀県基山には「基肄城(きいじょう)」が築かれました。これらを総称として「朝鮮式山城(百済式山城)」と言います。この築城の指揮を執ったのが百済渡来人の「憶礼福留(おくらいふくる)」と「四比福夫(しひふくぶ)」であり百済の技術が使われました。また記録によると、同年に長門国(現山口県下関市)に百済将軍の「答㶱春初(とうほんしゅんそ)」が長門城を築城しましたが、この山城は現在所在が分かっておりません。さらに熊本県の「鞠智城(きくちじょう)」も百済渡来人が築城しました。またこれを機に福岡県と佐賀県各地を始め中国地方にも次々と築城されていきましたが、結局新羅は日本には攻めて来ませんでした。

いかがでしたか今日の朝鮮式山城のお話。
信じるも信じないもあなた次第です。
次回は冒頭にも述べた、朝鮮式山城の大発見についてお話ししたいと思います。
では次回・・・



大野城の城壁と水門(写真中央部)
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大野城の城壁と水門(写真中央部)
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大野城の城壁と水門(写真中央部)
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大野城の城壁跡
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基肄城石碑
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基肄城の土塁跡
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円上部は大野城
円中央は水城
円下部は基肄城
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☆彡Mさんのコメント
朝鮮式の山城、2016年に見付かって居たのは知りませんでした。シェアさせて頂きます。百済の滅亡王の亡命は660年で百済の残党に663年から3年援軍したのが白村江の戦いでは無いでしょうか。此の百済最後の王は愚鈍王で、干魃が続いたりしても方策も取らず忠義の臣が、柵を直す事や遊興を慎む事を高句麗と結ぶなど諌めたが その忠義臣を牢獄して死なせてしまった。なので後に 唐が此の白村江を押さえる事に成った時、愚鈍王(名前を失念) 唐の戒めとして碑を建て旧唐書にも載っています、日本では此の白村江の戦いは史実なのに 余り習いません。都合の悪い歴史なのです。日本最古の書 古事記は711年
日本書紀も720年、
百済縁京都に遷都は794年 此の660年頃、九州倭国と飛鳥勢力は並行していたと思います。奈良の平城京は710年其から僅か84年で遷都します。そして古事記を残した。有り得ない神話をです。

Sさんのコメント
飛び入りの無駄話お許しください。
万葉の歌人、大伴家持も、少年期を太宰府で過ごしてます。
その父旅人は、彼の地で妻に先立たれ、水城あたりを寂しく彷徨していたそうです。
多分、当時の支配階級の人たちは、今の英語並みに朝鮮半島の言葉や、漢語をはなすことができたんじやないかな?

女帝の記1~4 

2019.01.26.Sat.16:07
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孝謙・称徳天皇物語
女帝の記
①まほろば光明皇后
②たゆたひ聖武天皇
③うつせみ藤原仲麻呂
④たまゆら道鏡

高校までの日本史の知識で 聖武天皇と光明皇后がどちらも藤原不比等が叔父だったり、父親だったりしたと認識していた受験生は何人いるだろうか?
私も多分、知らなかったと思う。

~奈良時代、天平年間。
藤原氏は朝廷内で確固たる地位を築きあげようとしていた。そんななか、聖武天皇と藤原氏出身の光明皇后との間に生まれた娘、阿倍内親王は、幼い弟を失い、ただ一人の藤原直系の内親王となる。
一族より天皇を輩出することを画策する藤原氏は、あらゆる手を使い、阿倍内親王を史上初の女性皇太子に仕立てる・・・・・。初めは藤原氏の傀儡として、二度目は自らの意志で天皇となった天平の女の一生涯。~裏表紙

以下は、私の感想 

🌸長屋王の変→基親王を呪い殺したという疑いをかけられて、自殺。
安宿(のちの光明子)は、皇族出身者以外ではじめて皇后になった。
「前例がない」と光明子の皇后化に反対していたのが、長屋王だったそうだ。→ビックリ!

🌸日曜美術館などを見ていると、光明皇后の剛毅な筆跡から 光明皇后に魅せられている文化人は多いことがわかる。
光明皇后の功績は、多々あるけれど、まず第一に聖武天皇の遺品を正倉院に納めたこと。
そのおかげで、今日私達が奈良時代の宝物を見ることができる。
貧しい病人に治療を施す施薬院
養護施設と養老院の役割をする悲田院
などの福祉施設をつくったことは、画期的だった。

🌸光明子の娘 阿倍は、弟の基の死により、女性天皇に。

🌸母親光明子と玄ぽうの関係にドキッとする。
こういう性的な関係は、あったのだろうか?

🌸10年以上前、一人で平城京跡を歩いていたら、法華寺の裏に、当時のままの崩れかけた土塀の海竜皇寺を発見して、感動した。
玄ぽうは、光明子と繋がっていた。
どういう繋がりかは、分からないけど、その繋がりが歩いたら体感できたのだ。

🌸また、吉備真備もこんなポニョポニョしたおじさんではなかったのでは。
当時の超一流の国際人で、骨格のしっかりした天才だったはず。
理系も文系もバッチリの空海みたいなタイプの人。

🌸道鏡と阿倍の恋→道鏡もかなり素敵な人だったはず。
権力欲よりも孤独な女皇を助けたかったのだと思う。

🌸その阿倍 後の孝謙重祚して称徳天皇は、天皇ゆえに結婚することはできない。
藤原仲麻呂について、あまり文献がないので、阿倍との関係はこういうことだったのか と納得。

天上の虹よりも より一層史実に基づいていて、面白い。